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捨てるモノの写真を撮っておこうと思った理由

NuDI2005-01-29


以前、『捨てる技術』という本が話題になったことがあって、一応買ってはみたものの結局読みませんでした。理由はよくわからないのですが、考えてみると、この言葉の組み合わせにどこか違和感を感じているような気がします。僕は捨てるのが苦手です。以前は「あー、これって母親の影響だなぁ」と思っていました。ともかくなんでも「もったいない」と……割り箸の袋まで取っておく人なんですが、最近はどうもそれとは質が違うのかもしれないと思うようになりました。

ともかく忘れるのです。何か手がかりを遺しておかないと、それこそ3日経つと記憶が空っぽになってる、と言ってもいいぐらいです。昔、若い頃、60年代の後期から70年代の初頭にかけて、「共有」という概念がキーになってました。個人的にというよりは時代のムードのようなものです。共有とは? 私有とは? そもそも所有とは? と。で、ワタシは何を所有することができるのだろうか、と考えたのです。

結論からいうと「ワタシが所有できるのはワタシの時間だけである」ということになりました。それ以外のものはたとえ一時的に手元にあったとしてもいずれはなくなってしまいます。典型的なのがお金ですね。人の評判も、自分の才能でさえも人は失うことができます。言い方を変えれば捨てることができる。でも「ワタシの時間」はどうやっても捨てることができない。たとえ会社や仕事に自分の時間を売り渡しているように見えても、でも、それは会社の所有する時間ではなくやはりワタシの時間であることを辞めることができない。

じゃ、モノって何なんだ? ということに立ち返ってみるなら、「モノとはワタシの時間の記憶を呼び戻してくれるトリガーである」ということになります。だから、モノを捨てるということは自分の記憶を捨てることに、たぶん、つながっているはずです。記憶力のよい人はモノを捨てても記憶は残りますから、いくらでもモノを捨てられます。でも、記憶力の悪い人はモノを捨てると同時に自分の記憶(自分の時間の記憶)、自分自身とも言えるものを捨てることになります。

つまり『捨てる技術』とは僕にとっては『自分を捨てる技術』ということになって、どうも具合が悪いのですね。極論すれば『アイデンティティを捨てろ』と言われているような気さえする。それって自分であることの責任を放棄することにつながったりもするわけで「いいのか? それで?」と。……いや、それができればそれはそれでとっても楽だろうなとも思うんですけどね。

とまぁ、そんなことはどうでもいいのですが、ともかく、捨てるモノの写真を撮っておこうと思うようになりました。写真は部分的にではあっても記憶のトリガーとして機能するからです。写真は常時接続になる以前に使っていたモデムの一つです。どう考えてももう使う機会はないモノです。……光もADSLISDNさえないという地域に引っ越すのでなければ。という条件は付きますが。