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第七弾へのコメント3---メモとしての「棚からぼた餅」

セレンディピティとは、当てにしていないものを偶然にうまく発見する才能、などと定義される」などと言われると、つい「たなからぼた餅」なんていう俗っぽいことわざを思い出してしまう。[松岡裕典
言うまでもなく「努力もせずに思いがけない幸運が手に入ること」なのだが、しかし、棚からぼた餅が落ちたとしても棚の下が地面だったとすれば、それをそのまま食べるわけには行かない。あるいは、自分よりも近いところに人がいればその人がそのぼた餅を手に入れることになるはずだ。
たしかに棚からぼた餅が落ちることはあるかもしれないが、それを確実に自分のものにするためには、その棚の下でじっと落ちるのを待ち続ける持久力・忍耐力と、落ちた瞬間にさっと受け止めるだけの瞬発力と技量が必要になるということではないか。棚からぼた餅が落ちる確率を3%とするなら、97%の努力がなければそのぼた餅は手に入らないというべきか。
というわけで、何が言いたいかというと「その3%というのは自分=人間の範囲を超えた出来事であって、天啓とか夢のお告げに等しいのではないか」ということなのだ。だから、僕はあんまりそういうものを当てにしない。もちろん、いざ目の前に落ちて来たときのために、さっと受け止められるような訓練はしているつもりだけれど。
と言いつつ、「セレンディピティ」あるいは「シンクロニシティ」という用語を鏡にして自分の仕事を考えてみると、ほとんどそれに頼っているような気もする。簡単に言うと、仕事のオファーがあった時に「あ、これはあれで行ける」ということがまったくと言っていいほどない。まず「えー、これ、できるかなぁ」と不安になる。仕事をはじめてけっこう長いのだけど、その不安はいつまで経っても消えない。
ところが、それが作業を進めていくうちにいつのまにかクリアされている。アルキメデスニュートン級の天啓(パラダイムシフト)がやってきたことはないものの、たいがいの場合、自分でもどうやってそれができたのかわからずにできてしまう。当然、自分の力でそれを成し遂げたという感覚も持てない。だからこそ、常に「最初は不安」になるのだと思うが。
ひょっとすると、僕は、どう見てもぼた餅には見えないような「極小サイズのぼた餅」をかき集めることで仕事を成り立たせているのかもしれない。そこでどうITを使っているかと言えば、結局、いままで書いてきたことしかない。つまり、「あれ?」と思ったこと、たとえそれがどんな些細なことに見えても、書き留めておくということだ。その「あれ?」が僕にとっての「ぼた餅」であり、それを見逃さずに書き留めておくことが僕にとっての「セレンディピティ」なのではないかと思う。……地味すぎて恐縮ですが。
(Sat, 27 Mar 2004)