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第四弾へのコメント3---発想を刺激するものを細部に求める、というスタイルもある

そもそものところで躓いた。というのは立花隆氏言うところの「斜め読みをして書物全体の大意を把握する絵画的読み」という言い方自体に「あれ?」と思ってしまったからだ。たしかに「パッと見て全体を把握する」を絵画に喩えたくなる気分もわからないではないし、そういう比喩もあるかもしれないが、個人的には抵抗がある。絵画はパッと見てわかるようなもんではないし、そうやって見てもつまらないと思う(単なる比喩にツッコミすぎか?)。[松岡裕典
「「全部はじめからじっくり読み」方式は絶対にしてはならない無謀な方式なのである。そんなことをしていたら、出会うべき本に出会えないうちに一生を終わってしまうこと必定である。」というのも「うーん、そうかなぁ?」だ。そう思うのは僕が「出会うべきものはイヤでもいずれ出会う」と思っているせいかもしれない。
たとえば、僕は、映画は途中の3分見ればいい映画か悪い映画か(自分が見るべき映画かそうでないか)がわかる。3分あればその映画の持っているリズム・呼吸法がわかるからだ。同じように本も数ページ読めば(面白い=読むべき本かどうかが)わかる。数ページ読んで面白いと思えば買うし、つまらなければ買わない。資料として買う場合はまったく中身を見ないこともあるけれど。
だから立花氏いうところの「絵画的な読み」はしないし必要も感じない。とはいえ、10代後半までは異常に読むのが早かった(絵画的な読み方をしていた)。それが変わったのは唐十郎氏の「少年マガジン1冊読むのに数日かかる」という話に衝撃を受けて以来だ。それ以来、僕は意識的にすべてをゆっくり読むように(音楽的に読むように)なった。
なぜ少年マガジンに数日(一ヶ月だったかもしれない)もかかるかと言えば、一コマ一コマからいろいろ想像してしまうからだと書いてあって、「そうか、そういう読み方もあるのか」と、いや、正確には「そっちのほうが面白く読めそうだ」と思ったのだ。
「部分的に参考になることが書いてある」ということもたしかにある。しかし、その「部分」は僕に言わせれば「本」ではなく、本という大きなコンテクストから切り離された単なる断片情報でしかない。その断片情報を探し出すためにわざわざつまらない読み方をするのはそれこそつまらない。というよりも僕には「絵画的に読んで必要な部分を見つける」というような才能がそもそもない。「必要な部分かどうか」さえ、ちゃんと時間を掛けてじっくり読まないとわからないのだ。
で、そうやってじっくり読んだ本の内容を覚えているかというと何も覚えていない。というよりも意識的に忘れるようにしている。他人に比べて記憶容量が足りないような気がしていて、いちいち覚えていたらオーバーフローしそうだから。イメージとしては「流しっぱなしの水道蛇口の下のザル」のようなもので、全部が下に落ちているように見えて細かい水垢が少しずつ溜まっていくという感じ。
(以前にポストイットにメモを取りながら読むという話を書いたが、あれは「書評しなくてはならない」というような特別な理由があるとき、あるいは、思わずメモを取りたくなるような刺激的な本の場合であって、日常的にやっている方法ではない)
で、そのままにしておくとほんとに何にも残らないので、日常的にメモを取ることになる。メモの内容は、だから「溜まった水垢」ということになる。上品に言えば「いったん自分の中に取り込んでそのエッセンスだけを自分の言葉としてメモする」ということになるのかもしれないが、そういう自覚はない。ポストイットを使ったKJ法もどきのこともよくするが、そこで使う断片メモは自分のメモ(水垢)であって一次資料(水)ではない。
知的財産権の保護という観点からして問題がある」かもしれないが、僕の最終的なアウトプットは原稿でも企画書でもなく(両方とも書くがそれはプロセスやツールであって最終アウトプットではない)、視覚的なデザインだったり、ソフトウェアの実装可能な仕様だったりする。つまり「何らかの形で実現可能なアイデアをひねりだすこと」が仕事なので、情報を浅く広くもれなく収集するというスタイルではなく、発想を刺激するものを細部に求める、というスタイルになっているのではないかと思う。
まぁ、こういう変なやり方もあるということで。
(Wed, 03 Mar 2004)