N/A

知識をそのままの形で流通させることは出来ない

先日、知人に「知識を流通させる話なのに、なぜ、それ以前の話ばかりするんだ」と聞かれてしまった。たしかにその説明をしていなかったかもしれない。簡単に言ってしまうなら、今泉氏と同意見で「知識は我々の頭の中にある状態」ではないかと思っているからだ。つまり「状態としての知識」を外部化(固定)した情報は流通可能でも、知識そのものは流通させられないのではないかと考えているために「その前の話ばかり」に見えてしまうのだろう。[松岡裕典
ここで言う「状態」とは、もちろん、流動的な状態、常に変化し続けている状態、(紙に打ち出された文章のように)固定化されていない状態、パッケージされていない状態を指している。喩えとして適切かどうか自信がないが、言うならば大きな鍋の中の煮立ったスープのような状態を指している。小皿に取り分ける、冷ましてパックする、あるいは冷凍すれば運べるが大鍋のままでは流通させられないような「状態」だ。
そして、情報とは、お皿に取り分けられたスープ、パックされたスープ、冷凍されたスープを指す。つまり知識というお鍋から取り出されハンドリング可能になったものを指している。養老さんの『バカの壁』には「人間は刻々と変化するが情報は変化しない」といったことが書いてあったが、ここでの「人間」を「知識」に置き換えてもいい。あるいは「辞典は死んだ言葉(意味が固定化した)しか扱えない」という知り合いの辞書編集者の方から聞いた言葉をここに持ってきてもあてはまるはずだ。
たとえば書物は「冷凍保存された知識」に似ている。保存状態さえ良ければ数百年、千年以上保存可能だ。しかし、バラバラのプリントアウトではよほど注意しないと数年で行方不明になる。数ヶ月の賞味期限しかないレトルト食品に似ているかもしれない。さらに小皿に取り分けられたスープは数日で食べられなくなるという意味でデジタルデータに喩えてもいい。デジタルデータは電源を落とした瞬間に消える。ハードディスクに記録しても酷使すれば数年、フロッピーもCD-Rもせいぜい10年しか保たないと言われているのだから。
つまり、情報にはそれを扱う道具もメディアもあるから、いくらでも流通させられるが、知識そのものを扱う道具やメディアはまだ存在していないのではないか、それは果たして可能なのか、ということなのだ。電子メールもウェブも情報をハンドリングするツールではあっても知識をハンドリングするツールではないような気がしているのだけど。
(Thu, 15 Jan 2004)