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クリスマスプレゼントに「超頭脳」をもらった、と想定してみる

「超頭脳」とは、見たこと聞いたこと読んだことをすべて記憶できて、しかも、それを同時に縦横無尽に比較検討できるような頭脳だ。もし僕の頭がそういうものだったら、たぶん「考えることを支援する道具」としてのポストイットもノートもコンピュータもアウトラインプロセッサも要らなくなるような気がする。[松岡裕典
僕らが本を読むとき、情報は1単語ずつあるいは1文字ずつリニアに頭の中に入ってくる。そして、僕らの頭脳は入ってきた情報を意味の単位(モジュール)に分解して、既存の知識構造のしかるべきところに結びつけていく。新しく入ってきた情報のインパクトが(肯定するにせよ否定にせよ)一定以上の強さを持っていれば、それは既存の知識に追加記憶として組み込まれるはずだし、弱ければいったんは結びつくとしてもすぐに消えてしまうだろう。
しかし、もし、超頭脳(陳腐な表現だけど)なら、すべての情報はもれなく正確に蓄積されていくはずだ。それはちょうど1冊の本の内容をパラグラフ単位でポストイットに全部書き出して、それを五十畳敷きぐらいの、だだっ広い場所に(立体的に)配置したような感じになるだろう。
どこに何が書いてあるかを同時に認識して、こことことは同じことを言ってる、あそことここは矛盾している、といったことを瞬時に判断して全体の構造を把握する。しかも、その一冊だけではなく、それまでに読んだ本、見たこと、聞いたことがすべて、有機的に接続されていて、新しい情報が追加されるたびに、全体の整合性が取れるようにダイナミックに構造を変化させていく、のではないか。
自分で書いていてもクラクラしてくるが、しかし、きわめて不完全であったとしても僕らの頭脳というのは(物的証拠は何もないが)そういう風に働いているような気がする。しかし、超頭脳ではないので「すべてを瞬時に」というわけにはいかず、「えーと、これとこれは?」とか「そういえば、これと似たものが」といったように、きわめてゆっくりとしかも不正確にこういった作業をしているのではないか。そして、そういった不完全さをを補うためにいろんな道具を使っているんじゃないかと思うのだ。
先日書いた「デジタル読書法」は、この超頭脳仮説をいま手元にある道具で検証してみようという趣旨の原稿だった。つまり「入ってくる情報を自分の頭の中にある知識と結びつけ、その結果を蓄積し、次々と入ってきた情報をそこに追加しながらダイナミックに全体の構造を変化させる」という超頭脳の機能を、ポストイットというシンプルな道具でシミュレーションしてみたら、ああいう方法になったという話だったのだ。
で、重要なのは自分の頭を超頭脳化することでも、超頭脳コンピュータ(のようなもの)を作ることでもなく、むしろまったく逆に、自分の頭の外側で超頭脳的な仕組み・環境を作ることだ。ここでいう「自分の頭脳の外側」とは、他人の頭脳も借りられるようにするという意味だ。一人一人では不完全であったとしても集まることによって全体としての不完全レベルを下げることはできないだろうか、ということ。変な言い方をするなら「相互扶助方式の外部頭脳」、お互いに足りないところを補い合うようなもの。機能としては超頭脳と同じでも、概念としてはまったく反対の仕組みが僕は欲しい。
その理由は、もし仮に僕の頭が超頭脳になったら、なんだか解脱したお釈迦様になったみたいでとっても孤独で寂しい気分になりそうだし、逆に単一の誤りを犯さない超頭脳コンピュータという発想は「誤謬を犯さない党中央(共産主義)」という、失敗に終わった壮大な実験を思い浮かべてしまう。どうも根が軟弱なせいか、そういう極端なのは苦手。修行なんてイヤだし、間違いはありえないというのは嘘くさいし、善か悪かの二元論も苦手だし……と考えると、これしかないよなぁと思ってしまうのだが。
(Thu, 25 Dec 2003)