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知識の構造を探る目的

大脳生理学などによって脳の物理的・科学的な構造はある程度解明されてきたのかもしれないが、脳と知識(と呼ばれる何か)の関係についてどれだけのことがわかっているのだろうか。日常的な感覚でいうなら、なんとなく知識は脳に蓄えられているような気はするけれど、ほんとうに「脳に知識が蓄えられている」のかどうかはよくわからない。ましてその知識に構造があるかないかなんてわかるはずもない……。[松岡裕典
でも、僕らはたしかに何かを記憶しているし、その記憶を元にものを考えたり、発見したり発想している。だとするなら、我々人間の内部(それが脳なのかどうかはおいて)には、なんらかの形で構造を持った形で知識あるいは知識の元になるものがあるはずだ。そして、それらがどういう形で存在するのか、あるいは生成されるのかがわかれば、それは知識流通を考えるときにも役に立つのではないか。
学問として考えるなら、科学的に証明しなければならないだろうが、僕らは学問をしているわけではないので、証明不可能な仮説であっても日々の生活や仕事でのコミュニケーションに有効に使えるならいいじゃないかと、少々乱暴に僕は考えている。
たとえば、本(書物)のような形……「はじめに」から始まり、第1章、第2章……「おわりに」で終わるような構造を考えてみる。イメージとしては一本の紐。あるいはアナログレコード。どうもこれは当たっていないような気がする。ある知識にたどり着くために、生まれた頃から順番に記憶をトレースしているとは思えない。近藤氏のご指摘のとおり「人は順序だててしか理解できない(伊丹敬之氏)」から、書物はリニアに書かれているが、僕らの頭の中にそれをそのままリニアに蓄積していくわけではなさそうだ。つまり、何らかの構造変換がされているんじゃないかという仮説が立てられる。
リニアな構造でないものは何か、と考えて思いつくのはいわゆるハイパーテキスト構造だ。KJ法的と言い換えてもいいし、リゾームと言ってもいいが、ようするに、はじめもおわりもなくて「断片」が縦横無尽につながっている構造だ。昔、科学雑誌シナプスの接続状態の模式図なんてのを見た覚えがあるが、それとも外見的に似ているし。外見・物理的・科学的に似ているからといってその働き方も同じだとは言えないけれど。
つまり、「リニアに入ってきた情報はいったん分解され、ハイパーリンク構造のしかるべき場所に接合される」というイメージが可能なのではないか。
仮にそうだとするといろんなことが考えられる。たとえば、分解するためにおそらく意味の切れ目を発見することが必要になるはずで、それはいわゆる形態素解析みたいな作業かもしれないな、とか、分解したはいいけれど、うまく納める場所がない、なんてことも起きるのではないだろうか、とか、あるいは逆に、そのハイパーリンク構造そのものがリニアに入ってきた情報を分解する時になんらかの機能を果たしているのではないか、とか。あるいは、その分解された要素に対して「好き嫌い」のような感情が何かの影響を与えることもあるんじゃないか、とか、いや、むしろ「知りたい」とか「知りたくない」というもっと根元的な情動に支配されているかもしれない、とか。
……というのはあやふやな仮説に基づいた一種のシミュレーションでしかないけれど、それでも「人は理解できることしか理解できない」とか「知りたくないことには耳をふさぐ(いわゆる「バカの壁」)」といった事態がなぜ起きるのかの理由がわかりそうな気がしてくる。いや、ここでの目的は頭の中を覗くことではなくて、仮にそうだった場合、脳の外側で僕らに何ができるのか、どういう道具を使えばスムーズに思考できるのか、あるいは、その考えを他人に伝えることができるのか、なのだけど。
(Thu, 18 Dec 2003)