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知的活動を支援するソフトウェアをゼロから考え直すこと

知人から書評を依頼されたせいもあって読書法の話にそれてしまったが、ここでの本筋は「シンプルなカードや封筒がどうして知的ツールになるのか」だ。そして、それを考える目的はそこから新しいタイプのソフトウェアを構想してみたいということだったりする。いま僕らが日常的に使うソフトウェアといえば非常に限定されてしまっている。まずメーラ(インスタントメッセンジャーも含めて)、それからウェブブラウザ。それから、いわゆるオフィススイート(ワードプロセッサスプレッドシート、プレゼンソフト)。最後はPIM(住所録、スケジューラなど)だろう。で、新しいソフトウェアをゼロから考え直す最初のとっかかりとして、そういったごく日常的なソフトウェアとアナログな知的装置である「カードと封筒」との関係を考えてみたいと思ったのが始まりだった。[松岡裕典
そういえば、前回の拡大ミーティングで、デジタルなツールについての質問が出て、僕は「ワードプロセッサを使ってもっとも感激したのはデリートキーだった」というような答えをした覚えがある。あの時は時間不足で指摘できなかったことを、ここで補足しておくなら「もう一つはカーソルキーだ」ということになる。どう見ても知的な装置には見えないし、そもそもソフトウェアの機能とも呼べない。どちらも機能を一度覚えたら頭を使わずに使える、つまり指(身体)の延長になってしまう部分だ。
でも、一見、カードや封筒だってちっとも知的な装置には見えない。それを言うなら読書法で触れたポストイットも同じで、簡単に貼ったりはがせたりできることさえわかればマニュアルもヘルプも不要で使える。少々先走れば、知的なツールというのは「使うにあたって考えなくてもいい(身体が覚えてしまう)」というのが必須条件なんだと思う。別の言い方をするなら「使う人間に余分なことで頭を使わせない」ということで、僕はこれを「消極的知的支援」と呼んでいる。消極的というと誤解されそうなので別の言い方をすれば「内助の功」でもいい。夫と一緒に戦場に出かけるわけではないが、戦場で思う存分戦えるように余分なことを考えさせない、という意味だ。
うーん、もう少し現代的な話にしたほうがいいかもしれない。たとえばウェブページの作成。最初の頃はいわゆるホームページ作成ツールなんてなかったから、エディタでタグを書いていた。・・・ここは強調したいから文字をボールドタグではさまなくちゃ、などと考えながら文章を書いていると、そのうち何を書いているのかわからなくなったりした。僕も1995年頃しばらくウェブで日記を公開していたのだけど、毎日リンクを追加したり修正するのにうんざりしてすぐにやめてしまった記憶がある。でも、そのうちWYSIWYGでタグを入力できようになった。で、最近ではブログツールあるいは日記ツールを使えばタグのこともリンクも考えなくていいようになった。
つまり裸のHTMLを書くことからブログツールへ、というのは確かにここで言う「内助の功」的な進化だと言える。が、そうではないソフトウェア、たとえばワードプロセッサスプレッドシートや・・・は? あるいはメーラは? いや、その前にOSのファイルシステムは? と考えてみると、どうも違うような気がする。
10年前(CD-ROMが一般化する前)には厚さ数センチ、1000ページ近くのマニュアルが当たり前のようについていた。つまり、極論すれば、A4で1枚の書類を作るために1000ページのマニュアルを読んで操作方法を覚えなくてはならないということだったのだ。最近はマニュアルはオンラインヘルプになったので紙のマニュアルはなくなってしまったが、かといってマニュアルが不要になった訳ではない。相変わらずプリンタで思うように印字できないとヘルプを読まなくてはならない。しかも起動できない場合はヘルプも読めないということになる。
愚痴っていても意味ないのでやめるけど、ようするに僕らがやりたいことは、目的は、A4で一枚の企画書を書くことだ。そして、優れた企画書を作るためにソフトウェアが支援してくれているのか、知的支援ツールになっているのかと考えるとどうも違うんじゃないか、進歩(進化)の方向が違うんじゃないかと言いたいのだ。
(Thu, 11 Dec 2003