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昔、ワードプロセッサの時代があった。

いや、正しくは「ワードプロセッサは我々の思考を支援するツールになりうると言われた時代があった」あるいは「知的支援ツールとしてワードプロセッサが脚光を浴びた時代があった」というべきかもしれない。当時、僕はそういうテーマで本を書いてくれと頼まれてうんうんうなった思い出がある。何回もドラフトを書いて結局あきらめてしまった。僕の努力不足もあるが、当時のワードプロセッサに、思考支援ツールと呼ぶには致命的な欠点があることを見つけてしまったのも理由の一つだった。[松岡裕典]
知的ツールの基本は情報を断片としてハンドリングできることだと思う。では断片とは何かというと、ある流れの中で連続して読むこともできるし、その部分だけ単体を取り出しても意味を持つものである。なぜ単体で取り出すのかというと、ちょっと説明が必要かもしれない。
その時、僕は原稿を書く以上、「思考支援ツール」という耳に心地よい言葉を振り回しても意味ないよなぁ、と思い、次に「思考を支援するって具体的にどういうことなんだろう」と考え始め、ついには「そもそも思考って何なんだ」というとんでもない問題を考え始めてしまったのである。「そんなこと考えてると商売にならないぞ」という天使のささやきなのか、悪魔のコーチングだかわからない声を聞きつつも、考えが止まらない状態になってしまったのだ(どうでもいい話ですね)。
「思考」と書くとなんだかとっても偉そうに見える。しかし、「今日の晩ご飯に何を食べようか」と考えることも思考には違いがないんじゃないかということに気がついた。それは「我々人類は何処からきて何処へと向かっているのか」というような哲学的なテーマと、趣きは違っても頭の働き方自体はたいして違わないということだ。
「思考」という高尚な言葉も分解して断片化してしまえば、比較する、思い出す、つなげる、といったシンプルな働きに分解することができる。晩ご飯の例でいうなら、僕らは「今朝あるいは昨晩なにを食べたか」を思い出そうとする。あまり同じものを食べるのは身体によくない、という基準と比較してその妥当性を検討しているわけだ(難しくいえば)。さらに「僕って何が好きだったかな」ということも思い出そうとしている。そこで2つ以上思い出した場合には「そのうちのどちらが今晩の食事にふさわしいか」を、やはり比較している。
つまり、「思考」という行為の重要な要素に「比較」があるなら、思考支援できるワードプロセッサは「2つでも3つでも文章を並べて比較できなくちゃダメ」ということになる。しかし、当時のワードプロセッサはまだまだ清書機械の域を出ていなかったので、2つの文書を並べてみるのが精一杯だった。しかもディスプレイの解像度も低く、1つの文書に割り当てられるのは400字以下だった。つまりカードをたくさんならべて比較するというようなことはできなかったのだ。
それから時代は進み、ハードウェアは飛躍的に進化した。ディスプレイの解像度は上がり、しかもマルチディスプレイにもできる。ソフトウェアもグラフィカルなユーザーインターフェイスになって、ウィンドウをたくさん開けることも可能になった。フォントサイズだってかなり自由に設定できる。にも関わらず、ワードプロセッサはなぜだか知らないけど昔とほとんど変わっていない。いまだに情報を断片としてハンドリングできるようには作られていない(ように見える)。
で、しかたなく僕はポストイットにメモを書いて机の上に広げながら、時としてコンピュータでメモを書いてそれをポストイットにプリントアウトするという訳の分からないことをしながら「ああでもない、こうでもない」と考えていたりするのだ。いまだに。
(Thu, 20 Nov 2003)