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知的装置としてのカードと封筒

ありふれた、ただのカードあるいはどこにでもある封筒が、魔法の呪文を唱えると立派な知的ツールあるいは知識を創造するための環境になる。あるいはそういうモノとして見えてくる(先週の記事)。なぜ、そんなことが起きるのかという問題も面白いのだけど、個人的には、その魔法の呪文とは何かが知りたくて、ああでもないこうでもないと考えあぐねているというわけなのだが。とりあえずの仮説として「モジュール説」というのを考えてみることにする。[松岡裕典
カードと封筒、この2つに共通する性格は何だろうかと考えていて思い当たったのは、これらが、分割のための道具、つまり「まとまりを分割・分解して操作可能にするための道具」だということだ。変なたとえだが、大きなスイカを切り分けて食べやすくするための包丁みたいなものだ。
ノートを丸ごとのスイカだとするなら、カードは切り分けられた断片だ。断片にすることで、順番を入れ替えたり、同じ単語を含むカードだけを抜き出したり……いろいろできるようになる。また、机の上、棚、床の上に積み上がった紙資料の山全体をスイカだと考えれば、封筒はそれらを種類別に分けてパッケージにする、やはり断片化のためのツールだと考えることができる。
……なぜこんなことを考えているかというと、実はコンピュータを使って考え事をしようとしてもなかなかうまくいかないからなのだ。使い始めてもう20年ぐらいになる。ポケコンからはじまって、デスクトップ、ノート、サブノート、PDA……ワープロ表計算、データベース、パソコン通信、インターネット……「まだ出始めだから使いにくいだけで、そのうちに良くなるに違いない」と思っているうちに20年経ったが、全然ダメなんである。
パーソナルコンピュータが普及し始めたときのキャッチフレーズは「コンピュータは人間の知的能力を拡張する装置である」だったはずだ。ところが、20年使っているが、どうもいまだにその実感が沸かないどころか、部分的には紙の時代よりも状況が悪くなっているような気がするのだ。
もちろん、調べものが便利になったことを否定するつもりはない。紙の時代には、ちょっとわからないことがあってもそう簡単に答えは見付からなかった。昼間であれば書店や図書館に駆け込む、あるいは知っていそうな知人に聞くこともできるが、深夜ともなればそれらの手も使えず、事実上お手上げだった。しかし、いまなら深夜だろうが明け方だろうが、自宅だろうが喫茶店だろうが、インターネットの検索エンジンに適当な語句を入れれば、ほぼ瞬時に答えが表示される。
しかし、すでに存在している答(知識・情報)を探しだすことだけが知的な活動ではない。むしろ、どこにも存在していない答えを見つけること、あるいは、問題を発見することこそが知的な活動なはずだ。でも、そのためのツール、そういった活動を支援するツールがいまだに見付からない。で、仕方なくいったん紙の時代に戻ってはじめから考えてみるしかないかなと思っているところなのだ。もちろん、コンピュータだけが道具ではないのだから、使えなければ使わなければいい、という考え方もあるのだけど。
(Thu, 13 Nov 2003)