N/A

ケータイをパチパチしながら知的ツールとは何かを考える

そもそも、ここのテーマは知識流通であるのはわかっている。が、どうも最近いろいろと考え込んでしまうことが多いので、半分は逃避行動でケータイをパチパチ(ケータイのテンキーで文字を入力するときの擬音)しているような気がする。で、昨日、いつものようにパチパチしながら飯田橋の交差点を渡ろうとして、突然、変なことに気が付いた。そのとき考えていたのは「ケータイは知的ツールになるか」ということだった。[松岡裕典
なぜそんなことを考えていたかというと、ケータイが好きだからというわけでもないし、新しいケータイを買うための口実を考えていたわけでもない。ただ単に僕がメモ魔で、そのメモ魔にとって、ケータイはまったく理想的なメモの道具だからだ。で、実を言うと、僕は「メモこそが知的活動の基本だ」と思っていて、だとするなら、ケータイを知的ツールと呼ばずに何を知的ツールと呼ぶのだろうか、と思っていたりもする。
ケータイとは何か、一言で言うなら「片手でメモが書ける道具である」と、これに尽きる。たいしたことがないように思えるが、片手でメモが書ける(もちろん正確には打つ、だが)道具は他にはない。……それで僕はケータイを「ワンハンド・モバイル」と呼んだ。しかも右手でも左手でもほとんど同じように書ける。こんな「書く道具」も他にはない。紙のメモだと利き手でしかメモは取れないし、立ったままメモしようとすれば片手はメモ帳を持つためにふさがってしまう。それはpalmのような PDAでも同じだ。パソコンでも事情は同じ。
その意味では知的ツール度において、ケータイはそれらの電子機器をまったく寄せ付けない。が、この考え方はなかなかどうも、すんなりとは市民権を得られそうもない。なにせ「あの、歩きながらケータイでパチパチやってる若いの見るとケリ……云々」という声が周り中から聞こえてくるのだから。
僕は、ケータイの小さなディスプレイに表示されていた「ケータイは知的ツールになるか」という文字列を見ながら飯田橋の交差点を渡っていて、ふと、あることに気が付いた。そして、もちろんケータイでこう入力した。
  そもそも知的ツールと呼べるものは存在するのか?
  京大式カードと封筒しかないのではないか。
カードと封筒なんて、どこにでも転がっているありふれたものなのに、川喜田二郎さんや梅棹忠夫さんが「カードは知的ツールである」と宣言し、また、野口悠紀雄さんが事務封筒を使って「超・整理法」を考案したが故に、それらはピカピカの「知的ツール」として認知されるようになったということを考えるなら、このパチパチ・ケータイだって、それなりの理論武装をすれば立派な「知的ツール」として認知される可能性はあるはずだ。という風に考えたのだ。
いや、問題は「ケータイが知的ツールになるか、ならないか」ではなく、むしろ、そのありふれた「封筒」と「カード」には、なにか共通する秘密があるのではないか、ということだ。もし、あるなら、それが「単なる××」を「知的ツール」に変える魔法の呪文ということになるはずだ。それはいったい何なのだろうか。
(Thu, 06 Nov 2003)