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知識は使うことで知恵になる

我々は外界の事象・現象を見てそれが何であるかを認識する。たまにはそれに触発されて何かを思いつくこともあるが、それは我々が持っている知識によって可能になっている。しかし、その知識に頼り過ぎると、どんなものを見ても「それはそれ、これはこれ」と全部きれいに説明できてしまうので、「なぜ、こうなってるのか」という疑問(発想の元)が生まれにくくなる。発想のための隙間がなくなってしまうのだ。[松岡裕典
ここで言う「発想の隙間」は、視点を変えれば、 今泉氏の発言 「この知的な能力を育み、活性化するためには、コミュニケーションに厳密さを求めるのではなく、あえて意図的にグレーゾーンを持ち込むことが必要なのではないか」のグレーゾーンにとてもよく似ているかもしれない。
もっと大げさに言うと、いわゆる「無知の知」だろう。「なにか」を見て「あ、知ってる」と思った瞬間に、その「なにか」は、あなたの頭の中の知識と置き換えられてしまうが、この世界でまったく同じ現象・事象が2度起きることはあり得ない。常にどこかに異なった部分が存在しているはずだし、一つの現象・事象でも視点を変えればまったく異なった姿に見えることもある。しかし「知ってる」と思ってしまえば、その異なった部分は見えなくなってしまう。
「なにか」の例として一冊の本を、「知ってる」の例として「読んだことがある」を置いてみる。「その本を読んだことがある」は「その本のすべてを理解した」あるいは「その本をすべての観点から読んだ」と同じではない。こどもの頃に読んだ時に「楽しい話」だったグリム童話が、大人になってよくよく考えるととても怖い話だったりもするように、我々はある時点では、無数にある視点・観点のうちのごく限られたほんのいくつかしか持てないのだ。
「発想の隙間」は「読んだ=知ってる」を成立させないところ、「安易に知ってると思わないようにする努力」の中に存在している。言い換えれば「なにか」を見て「これは私の知らないものかもしれない」と考えてみること。さっさと処理してしまわずに「立ち止まる」こと、「ちょっと待てよ」という態度、それが「あれ?」という気づきを生むのではないだろうか。「無知の知」という言葉の意味は誰でも知っている。しかし、その知識は、このような具体的な行為として実践してはじめて、知恵として使うことができるようになるのではないか。
(Thu, 16 Oct 2003)