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次なる発想を得るために頭の中を空っぽにしておくこと

先週まで書いた原稿をつらつら眺めていて「あれ?」と思った。それはいくら外界からの情報を遮断したところで、自分の頭の中にはいろんな知識が貯め込まれているではないか、ということだ。人間、誰でも1日は24時間しかない。同じように、脳の容量も無限ではない。もし、既存の知識でいっぱいになっていたなら、そこには新しい発想の居場所が作れないのではないか。空っぽというと聞こえが悪いので、とりあえずこここでは「頭の中を空(くう)にする」と書いておくことにしよう。[松岡裕典
では、どのようにして「空(くう)」を創り出すか。簡単だ。忘れてしまえばいいのである。いや、正確には「忘れてもいいように、頭の外に記憶(記録)してしまえばいい」と書くべきだが。あとは、かすかな記憶のかけらを頼りにそれを引き出す方法さえ用意しておけばいい。と書いて、どこかのコンサルティングファームのテレビコマーシャルにそんなのがあったのを思い出した。あそこにはナレッジマネジメントシステムなんて言葉は一切出てこないのだけど。
「頭の中にスペースを作っておく」という着想を得たのは実は大学生の頃だ。ある時僕は、自分の頭の記憶容量がどうも人並みではないのではないかという疑念を抱いた。他人が楽々とやっている「同時にいくつものことを考えること」ができないのだ。ひとしきり悩んだ末に、僕は開き直ることにした。記憶容量を上げる努力をする代わりに、忘れてもいいようにする、どころか、むしろ積極的に忘れるようにしようと思ったのだ。つまり「頭の中を空にしてしまえ」と。
もちろん、安心して忘れるためには外に出しておかなければならないし、その外に出したものは脳の中で作業するのと似た環境でハンドリングできなければならない。という訳で、僕はB5サイズのルーズリーフを片時も離さず持って歩き回るようになった。まだシステム手帳もポストイットもなかったから。
それで何が起きたかというと、それまで以上にいろんなことを思いつくようになってしまったのである。奇妙なことに捨てれば捨てるほどアイデアが出てきてしまう。もちろん、ただ忘れるだけではそうはいかない。外部化した自分の記憶があればこそだ。そして面白いのは、その「外部化された記憶は記憶そのものではない」ということだ。そこには微妙なズレがある。どうやらその微妙なズレが刺激になってしまうようなのだ。
ここで、また以前に書いた原稿に結びついてしまう。それは「 自分が獲得した知識を共有化する理由 」は、自分自身が次なる発想を得るためだ、ということだ。もちろん、外部化=共有化ではない。外部化した知識を自分一人で後生大事に抱えていたっていいのだから。だが、少なくとも、外部化したほうがいいことだけは明らかだ。では、それをさらに一歩進めて共有化……というよりは他人に見せることによって、どんなメリットを得ることができるのか、それはまた後で考えることにしよう。
(Thu, 09 Oct 2003)