N/A

誰かのために、自分が獲得した知識を共有化する理由

以前いた会社で「情報共有化」について、割と真面目かつ現実的に考えていた時期がある。そこでネックになったのが、情報化コストを誰が負担するのかという問題だ。特定のコンテクストが存在する会話の中であれば数分で喋れることでも、テキストとして書くとなると数分では済まない。誰がいつ読んでも(ほぼ)誤解されないように書こうとするなら、ちょっとしたものでも30分はかかる。[松岡裕典

ビジネスタイムの30分は大きい。30分あれば、次の企画のためのメモを書き、同僚と簡単なミーティングをして、それを元にクライアント訪問のアポを入れて……ぐらいまではできるかもしれない。それらの本業の代わりに、いつ誰が使うかわからない、しかもそれをすることで自分にどんなメリットがあるかもわからない「情報共有化」という作業を、それも積極的にしてもらうためにどういうロジックを立てればいいのか。

たとえば、その頃読んだ本には「某社では会社が1件500円なにがしを支払って情報の共有化をすすめている」という記述があった。なるほど、それはそれでわかりやすい。しかし、500円という金額はけっこう微妙である。それで出てくるのは500円の価値しかない情報ばかりになる可能性もある。ヘタをすればお金を払ってデータベースにゴミの山を築くことにもなりかねない。

では、その情報の価値を評価する仕組みを組み込んだらどうだろうか。しかし、評価というのは簡単に見えて非常に難しい作業である。ある人にはゴミのような情報が他の人には宝石になる可能性もある。現場であれば宝石のような情報であっても、現場から離れた途端なんの価値もない情報にしか見えない場合もあるはずだ。それらをすべて客観的・正確に判断できる評価担当者は存在するのか、仮に存在したとして、その人間が評価に使う時間単価はとんでもなく高いものに付くのではないか。

といったことを考えてみて、結局その時は断念せざるを得なかった。そして、この問題はいまだに解決していない。

(Thu, 11 Sep 2003)