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記憶へのアクセシビリティを確保する

我々の頭に浮かんだ着想や得た知識はいずれ消滅する。どんな記憶力の良い人であっても、その事実から逃れることはできない。故に我々はその知識を外部の紙やコンピュータに書き写し、その書き写されたものを見る・読むことで頭の中に知識を再生成させるのである。そのときに問題になるのはそのトリガーになるべき「知識を表現した文書」にどうアクセスしやすくするかだが、これを「記憶へのアクセシビリティ」と呼ぶことにする。[松岡裕典

たとえば「超・整理法」と呼ばれる方法もアクセシビリティを確保するための技法の一つである。それまでは資料整理には分類が必須と考えられていたのを「分類は百害あって一理なし」として切って捨てたこと、そして、資料を同じサイズの袋に入れて時系列で並べることで、我々の「たしか先月に使ったはず」という曖昧な記憶を活用するという意味で画期的な方法だった。

しかし、提唱者である野口悠紀雄氏も著書の中で認めているとおり、「超・整理法」は個人でしか使えない。グループワークでは誰がいつその資料を使ったのかはわからない。他人の記憶を利用する方途は少なくとも現時点では閉ざされている。では、やはりなんらかの分類に頼る他はないのか。あるいは全てをデジタルデータ化してデータベースに登録して全文検索、あるいはテキストマイニングといった、ある意味で力任せの方法に頼るしかないのか。

資料をどう整理しアクセシビリティを確保するか。それは、一見たいした問題ではないように思えるが、「うーん、見つからないから全部もう一回書こう」とか「資料探しで半日潰した」などという時間は、ネジ一つ数銭というコスト削減に努力している生産現場からすれば、許し難い無駄なコストだろう。つまり、生産現場と我々が共に働こう、共創していこうとするなら、それらのコストは何らかの形で削減されなければ不公平というものだろう。

(Thu, 04 Sep 2003)