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書物と出版、文書と文書管理システム

先週の原稿には、今泉氏のご意見をはじめ、いくつかいただいた。それについてはいずれ触れるとして、もう少し問題を身近なものにしておきたいと思う。書物と出版と言ってしまうと、特定の業界(出版業界)を思い浮かべられる危険性もある。まずは書物を「文書」、出版という仕組み=今泉氏言うところの「文化装置」を「文書管理システム」と置き換えておこう。[松岡裕典

「書物」という文字を見るとそれだけで威圧感を感じる。人類の叡智がそこに書き記されているように思われる。翻って「文書」あるいは「ドキュメント」という文字にはそれだけの風格は感じられない。しかし、書物と呼ぼうが文書と呼ぼうが基本的には同じものである。そこには何らかの形で我々が獲得した知識が表現されている。

そう、文書は「知識」そのものではなくて「知識を表現したもの」にすぎない。たとえば、数千冊の書物を買ったとしよう。しかし時間がないので一冊も読んでいなければ、それはあなたの知識にはなっていない。それを読み、そして理解した時点で(たとえそれが誤解であったとしても)、はじめて我々の内部に知識として生成され記憶される。そしてその生成された知識は遅かれ早かれ程度の差こそあれ消滅していく(よほどの記憶力の持ち主であれば別だが)。

極論するならば、文書とはその消えてしまった記憶=知識を再び呼び起こすための一種のトリガーに過ぎないとも言える。だから我々は書物を書棚に並べるのである。書物の背を見るだけで、数十分の一かもしれないが、知識を再生成させることができる。そして書棚からそれを取りだしパラパラと読み返すことでさらにその記憶を補強することができる。

逆にいうなら、文書を段ボールに詰め込んで倉庫に送ってしまったらどうなるだろうか。あるいは、コンピュータのファイルシステムの奥深くに保存したら、あるいはCD−Rに焼き付けてファイルキャビネットにしまったとしたら、あるいはメールをアーカイブにして簡単に読み出せなくしてしまったら。その時点でそれらの文書の機能は半分以上失われてしまう、つまりは我々は知識を再生成する手段を失うことになるのではないか。

ナレッジマネジメントシステムの第一条件としては「書棚から書物をサッと取り出すように使えること」になるのではないかと思う。

(Thu, 28 Aug 2003)