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知識とは生成・消滅を繰り返す、ある種の「現象」ではないか

「知識とは生成・消滅を繰り返す現象ではないか」というアイデア(知識)が生まれた途端、それは、ある詩の一節にリンクされた(連想した)。いや、むしろ、その一節が「知識とは何か」という僕の問いにヒントをくれたというべきか。どちらが本当なのか、それも、つい先日のことなのに自分でもわからない。その瞬間を捉えることはできなかった。しかし、知識とはそんな風な、実はとても儚いものなのかもしれないとも思うのだ。[松岡裕典

その詩の一節とは、「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」……宮澤賢治の『春と修羅/序』の有名な冒頭部分である。ここでは、比喩とはいえ知識どころか、確固とした存在であるはずの「わたくし」自体が現象になってしまっている。なんだかひどく頼りない気分にさせられる。と同時に「知識とは生成・消滅を繰り返す現象ではないか」という着想そのものが、本当に自分のものなのかどうか、自信がなくなってくる。

本を読む。あるいは他人と会話する。「そうだ、その通り」と同意するとき、あるいは「いや、そんなことはない」と反論したいとき、そのことはある種の痕跡となって記憶に刻まれる。しかし、ぼんやりと、しかも言葉にならない状態の想念に、極めて自然な形で言葉が与えられたとき、それは、あたかも自分の言葉であったかのように吸収されてしまう。

<それ>は瞬時に生成され、そして何事もなかったかのように消滅したように見える。しかし、<それ>は何かのきっかけで、意図せざる形で浮かび上がってくるのだ。そのことを「想起」と呼ぶべきなのか、あるいは「生成」と呼ぶべきなのか、いや、そもそもここで、生成と想起を厳密に峻別することが果たして可能なのかどうか。
(Thu, 07 Aug 2003)

[オリジナルは日経BP社 先端技術情報センターへの寄稿]