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2001年9月11日

のんびり本棚の奥を引っかき回しているうちに世の中は騒然としてきてしまった。情報デザインという観点から今回の事件をどう見るか…というような原稿を書かなければいけないのかなぁ、とも考えてはみたが、しかし今回の事件はネタにするには気が引ける。
もちろん、書こうと思って準備していたテーマあるのだが、あの事件を前にすると、そのどれもが“不要不急の出張”みたいなもので、“いまここ”で書かなければならないことには思えないのだ。しかし、締め切りはとうに過ぎていて、こういう時の最終手段は“徒然草”と相場は決まっている。

2001年9月×日 回路

コメンテーターたちは誰もが「悲しむべき事件だ」と口にしていたけど、僕にはどうにも実感が沸かなかった。というのは、その「悲しむべき……」発言に続く、世界情勢の説明やら某国の軍事行動に対する解説やら、世界経済に与える影響予測やらに、その「悲しむべき……」は押し流されてしまって、じっくり悲しむ暇も与えてくれなかったからだ。もう1つには、僕が、あのビルやその周辺に出入りするような、世界を代表する金融エリートたちとは無縁の人間だってこともあるだろうし、ただ単に僕の想像力が貧困なだけなのかもしれない。
そのことに気がついたのは、あるウェブページを偶然発見したからだ。そのページには数年前にしばらく同じプロジェクトに関わっていた人が、あの現場にいて倒壊したビルの粉塵に巻き込まれ、生命の危機を感じたというレポートがあった*1。それまでは、倒壊したビルや逃げまどう人々を見ても映画の一シーンにしか見えなかったのが、そのレポートを読んだとたんに、少しだけ現実感を取り戻すことができたのだ。回路が接続されたような感覚。そして、当然のように僕は、僕の肉親や友達があそこで犠牲になったら…と考え始めた。そして、そこではじめて“黙祷の意味”に気がついたのだった。
黙祷とは、傍観者として祈ることではなく、自分が当事者であることを想像するための時間なのであり、傍観者という立場から当事者への転換のための回路を作る時間なんじゃないか、ということ。それはきっと「すべての情報が消えてしまう」という死者の体験を追体験するための儀式でもあるはずなのだ。

2001年9月×日 黙祷

そういえば、テレビで「最初に1分間、黙祷を捧げたいと思います」という言葉を聞いた覚えがない。放送局にはコードがあって一定時間以上無音が続くと始末書を書かされる、というような話を聞いたことがあるので、規定上不可能なのかもしれないが、後方支援に限定するとはいえ、自衛隊を海外に送ろうという事態なんだから、せめてコードに抵触しない30秒でも10秒でもいいから黙祷する時間があってもよかったんじゃないの? と思った。
僕も、犠牲者に対してそして残された人々に対して哀悼の意を表するのであれば、ここで黙祷すべきだ。テレビではないから無音にはできないから、そうだなぁ、コラムタイトルを「黙祷」として「本文白紙」にするというのはどうだろう。ついでに、1日でいいから、街中の広告ネオンを消し、看板に白い布をかぶせ、ポスターや電車の中吊りをはずし、すべての放送をやめる。すべての情報を消して、なくなった方、そして残された人々のことを考え、こんなことが起きないようにするにはどうしたらいいのか、1人1人が考えるための時間を作ることはできないのだろうか。ジョンレノンが生きていたら、そんな風に言うんじゃないか、とふと思った。

2001年9月×日 疑問

しかし、あの国の指導者も不思議な人だ。テレビに出てきたと思ったらいきなり“報復”なんだもの。最初に感じたのは「順番が違うんじゃないか」ということ。国家指導者というのがいったいどういう仕事なのか経験がないのでよくわからないが、仮に国を守るのが責任なら、その責任を全うできなかったわけだから、ひとまず人々に対してまず謝罪があっても良さそうなものだ。引責辞任してもおかしくない事件でしょう。
でも、でてきた言葉は“国家威信の回復”であって“国民の生命を守る”ではなかった。これって、昔、東洋の小国が唱えた「国体の護持」というスローガンと同じなんじゃないか。「国体を護持するために国民は一億総玉砕せよ」っていうのは、つまりは、リアルな存在としての人間よりもバーチャルな価値としての国体を優先する思想でしょ? そういうのって「間違いだ」ってことになったんじゃなかったっけ。戦後民主主義の教育を受けた僕は「民主主義とは抽象的な価値ではなくリアルな人間を尊重する思想である」と思っていたんだけど、違うのかなぁ。“国家威信回復を声高に叫ぶ民主主義”ってのは、どうにもしっくり来ない。

2001年9月×日 終結

戦争は最終的とはいえ外交手段だから終結させることができる。しかし、テロには終結なんかなさそうに見える。テロは突き詰めれば個人的な感情に基づく行為だからだ。だから戦争で人を殺しても犯罪にはならないが、テロで人を殺せば犯罪となる。ともかく、テロという行為を戦争を通じて根絶することは不可能だろう。ほんとうにテロを根絶したいのあれば戦争以外の手段を使う(考える)、というのが正しいやり方だろうな。
そんなことを考えながら、僕は「テロってウェブみたいなもんだな」と不謹慎な感想を抱いた。出版というのは印刷してしまった時点で、そこにどれだけ致命的な間違いがあっても修正することができない。しかし、ウェブはいつまでも永遠に修正が可能だ。今回の事件が“新しい戦争”であり、今までとは違う対応を考えなければならないとするなら、ウェブ、あるいはウェブに類するデジタルなメディアも今までの出版物とは違うことを考えなくてはならないのだろう。政治家でも経済学者でもない僕にできることと言えばそのくらいのことしかない。


[2001年09月27日]

*1:▼本文中で触れた知人のレポートが載っている(輸入車専門のウェブマガジン)サイト:http://www.vividcar.com/1.0/articles/rjjvqh000000ldff.html