N/A

書くことの“カラオケ効果”

テーマは前回に続いて、“なぜ、我々はミーティングの時に全員でメモを取るのか?”だが、手っ取り早く結論を書いてしまうと「我々は書くことによって聞いていることを、自分の内部に取り込みそして定着させている」からである。そして、これを僕は「書くことのカラオケ効果」と呼んでいる。
僕はけっしてカラオケが好きではない、というより、生まれてこのかたカラオケに行ったことは数回しかない、ほどに苦手である。で、ほとんどの場合“あーあ、なんでこんなところで下手な歌聞いてなくちゃいけないのか”と思ってしまうのだが、ある時、僕は大発見をした。それは自分で歌うと歌詞の内容がとてもよく…そう、身につまされてよくわかる、ということだ。
それまで、「あー、演歌ってうっとおしいな」と思っていたのだが、あるとき仕事先の知人の歌う『天城越え』を聞いて「おや」と思った。とりたててうまいわけではなかった(どっちかというと××だった)が、奇妙にしみじみと心にしみて来てしまったのである。で、つい「ああ、そんなことしてはいけない…」と思いながらも、つられて口ずさんでしまったのだ。そして、そのとき、突然天啓のように、その大発見は僕を襲ったのだ。

聞いているだけでは“ほんとうの理解”はやって来ない

…と、つまりは悟りを開いたのだった。そして、それが、ミーティングの最中に話者の話もそぞろになりながらもメモをとり続ける理由なのである。だから、そのメモは後で見てよくわからなくてもいいし、他人が見てわからなくても一向にかまわないし、ましてや、パソコンに向かってタイプしてメーリングリストに流すようなものでもない。そのような理由により、我々はこの「IT革命」の真っ最中に“コクヨのB5ノート”にボールペンでグチャグチャと書き付けるのだ。
さて、ここでの問題を再確認するなら“なぜ我々は会議やミーティングの時に手書きメモをとるのか?”だった。で、以上のように答えは出た。だから今回はここでおしまい…メデタシメデタシ、にしたいところだが、「答えがわかっても解決にはならないでしょ!」と突っ込まれるのが、この連載のイヤなところだ。
まず、第一の問題は“自分が後で読み返してもわからないメモ”、それっていったい何? ということだ。後で読んでもわからない、つまり、そのとき自分がどのように理解したのかが思い出せない、ということは、忘れてしまったということであり、極論すれば、“理解したつもりになっていただけ”とも言える。つまりそれは“外見はメモでも機能はメモでない”という奇妙なモノだ。
もちろん、「Aさんが○○と言った。Bさんがそれに××と反論を加えた」といった単純な記録であれば後で読んでわからないなんでことは起きないだろうが、そんなメモなら記録係を置けば済む話だし、それでも不安なら録音しておけばいい。MDならトラックマークという便利なものがあるから、ここぞというところでボタンを押して番号をメモしておけばいい。ともかく、そういう記録のためのメモをみんなで取るのは…時間がもったいない。
だから、ここで僕がメモと読んでいるのは“そこで自分が相手の話をどう受け止めたか”つまりは“理解したか”、であり、さらには、相手の話によって自分がどう考えたか、触発されたか、その内容なのだ。故に“後で読んで自分でもわからない”ということが起きうる。そういうメモの話だ。

自分が書きとめなければ、永遠に消え去ってしまう

ミーティングとは“ライブなインタラクション”である。つまり、その時その場所で、一回限りの“今までにどこにも存在しななかった何かが生まれてくる現場”なのだ。そして、その“生成された何か”は、次から次へと空の彼方に消えていってしまう。さらに面倒なのはそれが自分の頭の中、あるいは心の中に生成されるということだ。あなたがその時、その場で「あ、こういうことか」あるいは「それなら、こういうのもあるぞ」は、あなたにしか見えないものだということ。
もちろん、その場でそれを発言できればいいが、議論には流れがある。どれほど優れた着想であったとしても、その議論の流れを阻害するのであればメモを取るにとどめて発言は控えたほうがいい。ということもある。
そして、考えなければならないのは、そのメモは個々人でまったく別の内容でありうるということだ。場とテーマを共有しているからといって全員が同じように受け止めたり考えたりするわけではない。それぞれがそれぞれの視点からテーマを見るのだから、そこから生まれるもの=メモもまたまったく別々のものになる(はずだ)。
それはたぶん、“群盲像を撫でる”ようなものだと思う。ある人は「太い丸太だ」といい、別のメンバーは「いや、それは蛇のように長い」という。またある人は「それは毛の生えた壁である」という。そのどれもが正しく、どれもが間違っている状況、しかし、それを寄せ集めれば“それは実は象でした”という真理に到達する可能性を持つモノ、それが“ミーティング”という作業の本質であり、その道具として、我々は全員でメモを取るのだと思うのだが。


[2001年06月28日]