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ミーティングは「IT革命」の現場である


…というわけで6回にわたって書いてきた「見えない“情報が伝わる構造”を探して」は、先週で終えるつもりだったのだが、書いておかなければならないことがたくさんあることに気が付いてしまった。しかし、バックナンバーのページを見ると同じタイトルが並んでいて、何が書いてあるのかよくわからない…というのは情報デザイン的に見てもうまくないので、あのタイトルを付けるのは辞めることにした。
まぁ、それ以前に「どこが情報デザイン実践編なんだ?」と原稿を書きながら思っているし、しかし、そもそもこういうテーマの原稿をコラム形式で書こうとすること自体に少々無理があるのかもしれないなぁ、とか、書いているうちになんとなく学校の授業をやっているような気分になってきたので、早く切り上げたいなぁとか、どうも梅雨はよくない。気分もジメジメして文章もグチュグチュしてくる。それはともかくとして、本題に移ろう。

問題は“なぜ我々は会議やミーティングの時に手書きメモをとるのか?”

僕はこれが昔からずっと疑問だった。もちろんワープロやパソコンや、あるいはテレコが使えない時代、あるいはシチュエーションならメモを取るしかないが、サブノートでもWindows CEでもPalmでもなんでも使えるこの時代、もうじきPHSでインターネット定額常時接続が始まる、この「IT革命」のご時世に、なんでまた旧態依然たる“コクヨのB5ノート”なんか持ち込んで、手書きでメモなんか取るんだろう。って。
僕がいままで経験した中でいちばん良かったのは、某・大企業の週1回の定例ミーティングで、ここでは書記役を1人決め、PCでダイレクトにデジタルメモを作り、終わると体裁を整えてメンバーのメーリングリストに投げる。受け取ったメンバーは、自分の記憶やメモと突き合わせをして過不足を指摘、書記役が修正して議事録ドキュメントとして再びメーリングリストにポストする、というスタイルだった。でも、これでも僕は実は大いに不満だったのだ…。

この“会議でメモを取る”という行為にはいくつかの問題というかテーマが隠されている。

  • 1. なぜ、全員でメモをとるのか
    • まず、“ほとんどの場合、全員がメモを取る”ということ。上記のように、誰か1人書記を決め、彼(彼女)が筆記すれば、あとのメンバーはメモをとることにわずらわされずに議論ができる(はず)。しかし、メモをとるというのは誰かがやれば済むこと、つまりは必要悪にすぎないのか?
  • 2. なぜ、手書きなのか
    • 次に、たいがいの場合デジタルツール(パソコンでもPDAでも)を使わず手書きメモになるのか、ということ。手書きではそれをメールにするにも再度タイプしなければならない。これって全然「IT革命」っぽくない。しかし、そういう僕もメモは手書きでマシンは使わない。それは何故か。
  • 3. なぜ、公開されないのか
    • さらに、全員でメモを取っているにも関わらず、それが公開され、付き合わせられるケースが希なのはなぜか。付き合わせをしなければ誤解や勘違いを訂正する機会がなくなる。悪ければ実際の作業に入ってから「えー、そんな……」ということが起きる。それを防ぐためのメモではないのか。
  • 4. なぜ、再利用可能な形で蓄積されないのか
    • そして、その記録が(意味的に)再利用可能な形で蓄積されていかないのか。今回挙げた「いちばん良かったケース」でも、議事録はメーリングリストにポストされて終わり、だった。蓄積保管はメンバー個人の責任にゆだねられていたのだ。

参加人数分のバックアップが作られたと考えることもできるが、10人のメンバーが全員で自分のメーラーにフォルダとフィルタリングのルールを設定して管理するというのも、時間の無駄遣いのようで釈然としない。
それに、ハードディスクがクラッシュすれば、ほかのメンバーからデータをもらわなければならないし、メンバー全員が辞めてしまったら、その記録はどこにも残らないことになる。「そういえば昔××グループで同じようなテーマの議論をしていたはずだ」と気が付いて、参考にしようとしてもできなくなる。

ミーティングはIT革命の現場である

ミーティングというのは、先回書いた“ライブ・インタラクション”の現場である。そこでは新たなコンテクストが生まれ、知識(ナレッジ)が共有されていく。もし、その結果が個人のメモに記録されているだけ、あるいはデジタルデータ化されても再利用ができないのであれば、ナレッジマネジメントなどできるわけがない、のではないか。
情報デザインにとって、ナレッジマネジメント(この用語が適当かどうかは少々疑問だが)は明らかに上位概念である。つまり、情報デザインとはナレッジマネジメント実現の一手段にすぎない。目的をうやむやにして手段の話しても意味ないな、ということで、少し続けたい。


[2001年06月21日]