N/A

見えない“情報が伝わる構造”を探して。その2


というわけで、少々、脱線ぽくもあったのだけど、前々回と前回に渡って、「見えない“情報が伝わる構造”を探して」に出した図の「インフラ」について説明してきたが、言いたかったのは、“紙からディスプレイへ”の流れは逆になることはあり得ず、情報流通の主回路は遅かれ早かれネットになり、僕らはほとんどの情報をディスプレイ経由で手に入れることになるということ。
そして、それに伴って「読み書きのインフラがデジタル化されれば、従来の紙とインクにおける読み書きとは異なった質のものになる」のだから、いつまでも「紙がいいかディスプレイがいいか」なんて議論している場合ではないでしょう、ということだ。
まだ他にも書かなくてはいけないことはあるのだけど、あんまり長々とやっていても飽きちゃうので、とりあえず、他のレイヤーの説明を先にしてしまうことにする。

コンテクストとコンテンツの関係

この「情報デザインを考えるためのレイヤーマップ」によれば、インフラの上にあるのが“コンテクスト”レイヤー。で、コンテクスト(コンテキスト)とは、もともと言語学の用語で「文にあって単独では意味の確定できない言葉の意味を確定する役割を持つ“何か”」のことで、日本語では「文脈」、つまり「文章の(意味の)流れ・方向」語学の学習で「個々の単語の意味がわからなくても、ともかく全文を読めば、前後関係からなんとなく意味がわかる」と教師に言われる場合の「前後関係」というのがコンテクスト。意味を確定するという機能から考えれば、語順や接続詞がコンテクストを実体化したもののようにも思えるけど、水の流れから、「流れ」そのものを取り出すことはできないように、コンテクストにも実体はなく、それゆえ、文から部分として抽出できない。
さらに、一つの文もそれだけで完結しているわけではない。他の文との関係の中で初めて意味が確定できる(わかる)。たとえば、否定的に語っている文章を、肯定的なコンテクストを持つ文章に引用すると、肯定的な文章に解釈できてしまう、というようなことも起こりうる。
つまり、フレーズ、センテンス、パラグラフ…それぞれにレベルの違うコンテクストが存在している、というようなもので、図では、まさしく図式的に、インフラの上にコンテクスト、コンテクストの上にコンテンツ…となっているけど、実際にはコンテクストとコンテンツは多層構造になっていると考えたほうが正確。正確だけど図にすると面倒というかわかりにくくなる…のでああなっている。
で、そういう構造を持っているから、何をコンテクストとして捉えるか、というのもいくらでも拡げられる。実際、どんどん拡張解釈されて、現在では人間の行動様式や歴史文化もコンテクストとして考えてよろしいということになってしまった。

暗黙知としてのコンテクストを形式知にする?

さて、コンテクストが“背景(土台)として存在していて部分としては抽出できないもの”、つまり“暗黙知”だとすると、少々困る。というのは、ここで書いている原稿のコンテクストというか、議論の前提は「コミュニケーションを成立させてきたコンテクストが様々な原因によって失われつつある。これを補完するためにはコンテクストを再構築しなければならない」だから。
もし、暗黙知としてのコンテクストを形式知に変換することが不可能だとするなら、「社内のコミュニケーションが電子メール主体になると、誰が誰とどういうコミュニケーションをしているのか、わからなくなる。よって、社内のコンテクストがどんどん低くなり、コミュニケーションに障害が起きるので、昔ながらの大部屋制に戻し、社外とのコミュニケーションも電子メールを禁止して、全て電話で話すスタイルに戻さないとダメだ」という結論になってしまう。
社内に限定するならこういうやり方も可能かもしれないが、社会全体がデジタル化しているご時世に、他社に対してもそれで通すというわけにはいかない。社内はアナログに戻したとしても、社外とのインターフェイスはデジタルにしなくてはならないから、何らかのアナログ=デジタル変換の仕組みを導入しなくてはならない。…で、おそらくコスト的に見合わない。
やはり「暗黙知として存在するコンテクストを無理矢理にでも形式知にしてしまうこと」以外に方法がないように思える。しかし、そのためには日常的に行われているコミュニケーションのうち、どこがコンテクストでどこがコンテンツなのか、見極める作業から始めなくちゃならない、大変だ。が、それをやっている企業や業種は実はいくらでもある。
たとえば、ファストフード店に行き、代金を払ってトレイを受け取ると「ごゆっくりどうぞ」と、にこやかに言われる。にこやかなのはいいのだが、どこに言っても同じように「ごゆっくりどうぞ」なのは何故か、というと、接客マニュアルに従って接客しているからである。この接客マニュアルこそ、暗黙知(常識)であるはずの“店員としてのお客様に対するホスピタリティ”を言葉(形式知)として明示的に表現したものと考えることができる。
そして、そのように形式知となった表現は、他の業界にも“技術移転”して、居酒屋に行っても普通の喫茶店に行っても「ごゆっくりどうぞ」と言われるようになる。つまり、新しい接客文化として定着したというわけだ。これを僕は“形式知化することによって再構築されたコンテクスト”と呼んでいるのだが、その接客スタイルが客として快適、あるいは幸せかどうか、はたまた文化としていかがなものか、というのは、もちろん全く別の問題である。


[2001年05月31日]