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電子書籍という名のアンドロイドあるいはレプリカント

前回、読むためのソフトウェアとしてワードプロセッサが使えるのではないか、と書いた。しかし、世の中には電子ブックあるいは電子書籍と呼ばれる“読むためのソフトウェア”あるいは“仕組み”があるのでは、と思われた方も多いかもしれない。
1990年代の初頭には、その嚆矢(こうし)とも呼べる『エキスパンドブック』が生まれている。作品としては、ウィリアムギブソンの『ニューロマンサー』、マイケルクライトンの『ジュラシックパーク』などそうそうたる作品が発表された。
現在でも、このエキスパンドブックの直接の後継にあたる『T-Time』というソフトウェアもあるし、ちょっと前には、電子書籍コンソーシアムが作ったハードウェア込みの仕組みもあった。アドビやマイクロソフトもリーダーの開発を進めている。
これらは電子化された本を読むためのものであり、その中には当然“読むためのソフトウェア”が入っている。しかし、僕が“読むためのソフトウェア”と呼ぶのはこういった“電子化されたテキストを本と同じように読むためのソフトウェア”とは少し違う。

ディスプレイ上の文字を本(活字)と同じように読むことはできるのか

これらの仕組みは基本的に「本と同じように読めるようにすること」を目標において作られているのだが、僕はいつも疑問に思う。本の文字(活字)はインクによって紙に印刷された文字であり、物理的な実体を持っている。
しかしコンピュータの文字、ディスプレイに表示されている文字には何の実体もない。つまり、本質的には全く異質だ。ディスプレイ上の文字は、定着されたものではなく、あくまでも仮の姿にすぎない。“定着された文字(過去形)”ではなく“浮遊する文字(現在形)”と考えるべきだろう。
ディスプレイ上の文字が持つ特有の浮遊感覚、頼りなさ、はかなさ、をよく表しているのがウェブページを読むときの僕らの態度である。僕らはまずページをダウンロードする。というのはウェブページは、いつなくなってしまうかわからないからだ。そして、その次に僕らは保存したページをおもむろにプリントアウトして読み始める。
「ウェブページを保存する」のは、ウェブページはいつなくなってしまうかわからないものだからだ。これはウェブという仕組みの問題ではあってもディスプレイ上の文字の問題ではない。プリントアウトするのは、次の3つの理由からだろう。
1つめはハードディスクがクラッシュしてもおかしくないものであること、つまり「不安」だからである。2つめは紙という実体があるから「管理も楽」であり、3つめはまさしく「読みやすい」からだ。
これら3つ問題は、エキスパンドブックのような“可能な限り本を読むのに似た感覚を得られるソフトウェア”を作ることで、ある程度は解決可能だろう。
もちろん、フォントはもっと美しいほうがいいし、ハードウェアも本に似ているほうがいいはずだ。しかし、見た目をどれだけ本に近づけても、ディスプレイ上の文字は、その本質が持つ「浮遊感覚、頼りなさ、はかなさ」から逃れることはできないのではないか。

本の読みやすさを支える心理的な“土台”

つまり、本の持つ「読みやすさ」は、見た目の裏側にある「物理的な実体がもつある種の安心感」が土台として支えているのであり、それ抜きには本の「読みやすさ」は実現不可能なのだと思う。
そして、ディスプレイ上の文字が、見た目の「活字」を上手に真似れば真似るほど、その頼りなさははっきりと意識されるようになるはずだ。ディスプレイ上の「活字」とは、人間そっくりに作られたアンドロイドあるいはレプリカントのような存在なのである。
というわけで、結論は「どれだけ技術が進歩しても、ディスプレイ上の活字を本と同じように読むことはできない」となる。しかし、逆に「ディスプレイ上の活字を本と同じように読む必要はあるのか」という問いかけ方もある。
そして、その補助線として使える問いもいくつかある。たとえば「なぜ僕らは携帯メールをウェブページのようにプリントアウトして読まないのか」であり「CD-ROMタイトルで唯一商業的に成功したのが百科事典などのリファレンスだったのはなぜか」である。
さらに「本というスタイルは、紙に文字を印刷するという制約の中で作られた仕組みにすぎない」という考え方もある。“紙とインク”を“ディスプレイとネットワーク”に置き換えた時、そこに現れてくるのは「知識を流通させるという本の機能を持った、本とはまったく違う仕組み」であるはずだ。
僕が“読むためのソフトウェア”と呼んでいるのは、そこにつながるはずのものであって、決して「本と同じように読める仕組み」だけではない。


[2001年05月24日]