新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」というのは、イエス・キリストの言葉だが、この“新しいぶどう酒”を“デジタルコンテンツ”に、そして“新しい革袋”をウェブやメールといったデジタルツールに置き換えた場合にどうなるか、というのが今回のテーマだ。つまり、先回作った表の一番下の「メディア・ツール」レイヤーについてもう少し考えてみようということである。
さて、この聖書のセンテンス、素直に読むなら「新しいぶどう酒があるならば、新しい革袋に入れなさい」であって「新しい革袋があるならば、新しいぶどう酒を入れなさい」ではない。「まず新しいぶどう酒ありき」である。ところが、いま僕らが遭遇しているのは後者、つまり、「新しいデジタルテクノロジーがあるのに、そこに入れる新しいコンテンツが見つからない」という事態だ。僕なんかは、それなら新しいぶどう酒が見つかるまで放っておけばいいじゃないか…と、ふと思わなくもないのだけど、革袋のほうが先にできてしまっているのだから、そうも言っていられない。
とはいえ、そのデジタルテクノロジーが情報量(コンテンツ)を飛躍的に増加させているというのもまた事実で、新しい革袋に入れるべき新しいぶどう酒が見つからないまま、せっせと古いぶどう酒を詰め込んで、でも革袋が新しいものだからどんどん膨らんで結果的に大量に古い酒の入った革袋になってしまった。という少々意地悪な見方もできなくはない*1。
デジタルテクノロジーは情報生産のためのテクノロジーではなかった
…などと言うと、たいがい怪訝な顔をされる。ほとんどの人はコンピュータを情報生産の道具として使っているからだし、僕だってこうやって原稿を書くためにコンピュータを使っているのだから、「デジタルテクノロジーは情報生産テクノロジーではない」などと言えた義理ではない。が、しかし、大量に寄せられるドキュメントをどう処理すればいいのか悩んだあげくに「メメックス」という仮想マシンを考え出したヴァネヴァー・ブッシュが「情報処理機械としてのコンピュータ」の生みの親だとされていることを考えても、そのメメックスの実装型としてのデジタルツールは生産のためのものではなく、本質的に情報処理(消費)のためのテクノロジーではないかと僕は思うのだ。
つまり、この“新しい革袋”に入れられるべき“新しい酒”というのは「どんどん膨らんで手が付けられなくなるようなモノ」ではなく、むしろ「量は膨大にあるのに、見かけはとてもコンパクトで処理の楽なスタイルを持った情報(コンテンツ)」でなければならないはずだ。もし、そうではない、つまり古い酒=従来型のコンテンツをここに詰め込んでいくなら、今まで以上に始末に負えなくなる、そういうものなのだと思う。ここでいう「始末に負えなくなる」の一例は、前々回にも書いた、我々のコミュニケーションを支えているコンテクストが薄く(低く)なりつつあるというようなことである。
というのは、人間の情報処理能力をコップに喩えるなら、情報量が増えれば処理しきれなくなった分はコップからあふれるはずだ。誰もが同じ情報を蓄積して同じ情報を捨てるなら問題はないが、取るべき情報は人によって様々だ。故に、人によって異なった情報を蓄積するようになる。もし常識(コンテクスト)とやらを“誰もが知っている情報”だとするなら、その“常”の部分(共有部分)は限りなく少なくなっていく。つまり常識(コンテクスト)が失われていくことになる……ということ(もちろん仮説にすぎないが)。
何が“新しい革袋”に入れられるべき“新しい酒”になりうるか
新しい革袋(デジタルツール)の代表はやはりウェブだろう。日本では一般的に「ウェブは情報発信のためのツールである」とされている。まぁ“誰でも情報を発信できる”のだから、この言い方も間違いとは言えないが、ウェブは基本的にはプル型のメディアであり、「いつか(この情報を)必要とする人が現れるかもしれないから、この情報をここにおいておこう」を可能にする仕組みであって、新聞やテレビのように送り手から受け手に向けて積極的に情報を送り出す(発信する)仕組みではない。新聞やテレビが広告なしに成立しないように、ウェブも広告なくしては成立(維持)できないのははっきりしてきたし、逆に、デジタルツールを使ったメディアでをきちんとしたビジネスにするのであれば、今のような形のウェブでは無理だと思う。(以上余談)
また、デジタルツールが情報処理(消費)のためのものだとするなら、いちばん身近なワードプロセッサというツールにも同じことがいえるはずだ。最近のワードプロセッサにはたいがいアウトライン機能が付いているが、たとえば、原稿本文をきちんと要約した長めのタイトルを付けておいて、これをアウトライン機能を使って拾い読みできれば、ワードプロセッサは“書くためのソフトウェア”ではなく“読むためのソフトウェア”として使えるはずである。となれば、“きちんとした要約タイトルの付いたデジタルデータ”が“新しい革袋”に入れられるべき“新しい酒”の候補になるのではないか、と思うのだ。そして、もし、そうだとするなら、情報処理リテラシーの眼目は“いかに読み手に短時間で内容を伝えられるような文章を書くか”あるいは“そういう要約のできるスキルを身につけるか”ということになるはずである。
[2001年05月17日]