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読むことに関する神話、崩壊前夜。


我々の周りには様々な種類の情報が存在する。報告書や企画書などのビジネス文書もあれば、大衆小説のような娯楽情報もある。テレビのバラエティ番組や写真週刊誌のようなゴシップも情報といえば情報だ。これらの情報はすべて情報デザインの対象になりうるのだが、あまりに範囲を広げると収拾がつかなくなるおそれもある。
そこで、ここでは便宜的に情報を2種類に分けて考えることにする。「我々の意志決定を支援する情報」と、そうではない情報……、つまり情報を受け取ったあと「じゃあこうしよう!」に導いてくれる情報と、「ああ、面白かった」で終わる情報の2種類だ。ここで対象にするのは前者であり、これを仮に「意志決定支援情報」と呼ぶことにする。
さて、受け手がスムーズに正しい意志決定に到達できるようにするためには、どのように情報をデザインすればいいのだろうか。


■“誤った情報”を反面教師として考える
スムーズに正しい意志決定に到達させようという時に“誤った情報(誤情報)”を引き合いに出すのは反則ではないかとも思うが、実はこの“誤情報”、考えてみると意外に面白い。普通に考えれば“誤情報”は送り手のスキルに問題があるからだと思われているが、実は送り手ではなく受け手の“読み取る技術”さらにいうなら“理解の技術”に問題があるからなのだ。
たとえば、情報の送り手がその情報が誤りであることを知っているなら、訂正するはずである。もし知っていて訂正しないのなら、それは意図的な“誤情報”であり、送り手にしてみれば“正しい情報”ということになる。逆に、間違いであることに気が付いていないなら、これもまた送り手にとってみれば“正しい情報”ということになる。つまり、どちらにしろ、送り出されるのは“正しい情報”なのだ。
もちろん、正真正銘の“正しい情報”が送り出される場合もある(こちらのほうが圧倒的に多いはずだが)が、それも、受け手が読み間違えば“誤情報”になる。つまり、すべての“誤情報”は送り手としてではなく、受け手が情報を受け取る時点で、受け取り損ねて「作り出される」ものなのである。


■情報デザインの基礎は“送り手”ではなく“受け手”にある
情報の問題、コミュニケーションの問題というと、たいがいの場合は送り手としてのスキルの問題として語られる。“書く技術”に関する本は書店でいくらでも見つけることができるが、“読む技術”や“理解の技術”についての書籍はほとんど見かけない。似たような署名を見つけたとしてもそれは「読書論」や「読書術」あるいは「英語を読む」、「古典を読む」といった特定分野に限定されたもので、「ビジネス文書を読む本」だの「手紙を読む技術」といった基礎的な“読む技術”を解説した書籍ではない。
そこにあるのはおそらく「(日本人なら)読むなんて誰にだってできるはずだ」という神話、あるいは逆に「読解力は個人の才能であって、技術ではない」という常識ではないかと思う。でも、それはいつまで続くだろう。
僕が子どもの頃には、娯楽といえば本とラジオと映画しかなかった。晴れた日は外で遊ぶこともできたが、雨の日や夜には本を読む以外にすることがないから、家にある本を片端から、その中には当然大人向けの本も含まれるが、ともかく読んだ。よくわからなくても読んだ。暇だったからである。しかし、そうやって手当たり次第に読んでいくうちに、“読む技術”を身につけていったのではないか。しかし、いまの子どもたちにはそんな暇はない。
そして、読むことが少なくなれば“読む技術”はどんどん衰えていくだろう。“読む技術”が衰えれば、コミュニケーションもスムーズにいかなくなるはずだ。すでにその兆候はあちこちに見え始めている。もういつまでも「読むのは誰にでもできる」だの「読解力は個人の才能である」といった神話にしがみついているわけにはいかない。「読む」ということを分析し、意識的に技術として再構築しなければならない時代がそこまで来ているのではないだろうか。


[2001年04月12日]