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玉石混交の百科事典は使い物になるか

先日、眼にゴミが入ったようにゴロゴロして、それがいつまで経っても取れないので仕方なく目医者に行った。女医さん、軽く一言「角膜が剥離しかかってますね」。そう軽く言われてしまったので「たいしたことはないんだな」と思いつつも、どうも「剥離」とはただごとではないような気もする(ようするに「網膜剥離」と混同していた)。
だいたい、こっちは眼科に行くのはメガネを作るとき以外に縁がないんだから、その「角膜剥離」とやらがどのくらい大変なのか、大変じゃないのか見当が付かない。その場はなんとなく収まったものの、わからないのはどうにも不安。で、事務所に帰るなり眼帯をしたまま検索エンジンに「角膜剥離」を入れて調べる。と、いくつかの日記ページが引っかかった……。
インターネット以前なら、おそらく本屋に飛び込み実用書の棚から『家庭医学大百科』のような本を探し出して調べたはずだ。あるいは知り合いの中から“眼病について造詣の深そうな人物”を捜し出して電話で質問するか、ともかくそれなりの手間と努力が必要になる。でもまぁ……インターネット以降、特に常時接続以降は何かあるとすぐにインターネットで、になる。
常時接続にしてからインターネットの使い方は歴然と変わった。どう変わったかを一言でいうなら“インターネットが日常品感覚になった”ということだ。むろん、いくら常時接続になったところで、コンテンツがなければ何の意味もないが、5年前に比べるとなんだかんだと悪口を言われながら、その充実度は眼を見はるばかり。特に例の日記ブームもあってか、日常的かつ些細な話題に限れば他のメディアには絶対真似のできない充実ぶりである。
むろん、いくら“充実している”といっても玉石混淆には違いない。しかし、以前にも書いたように「玉か石かは受け手の状況による」わけで、うら若き女性の他愛のない身辺雑記の中に出てくる「また角膜剥離になっちゃった」の一言は、普通の人にしてみればいざしらず、「角膜剥離」になりかかって慌てている僕にしてみれば、ドンピシャリ、どんな立派な医学書よりもありがたい情報“玉(ちょっと言い過ぎ)”になる。というわけ。もちろん、1つだけでは安心できない。で、さらに読み進めても状況に変化なし。一安心。


■玉石混交の百科事典でも使い物になる
どうも、原稿そのものが身辺雑記化しているようだが、まぁ、ともかく何かわからないことがあると「まずインターネットでチェックする」という癖が付いてしまった。打ち合わせに出かける時には、まずブラウザで最寄り駅と目的駅を入力して経路を探すし、傘を持って出るべきかどうかも天気予報ページで確認する。そのうち、今日何を着ていくべきかもインターネットで調べ始めそうな雰囲気もある。
原稿を書く時にはさらにその傾向が顕著になる。宮沢健治だったか宮沢賢治だったかわからなくなった時には検索エンジンでとりあえず“宮沢健治”で検索を掛けてみる。これが百科事典のウェブサイトでヒットしたら大変な誤植だけど、なにせ相手は玉石混淆インターネット、これでも「銀河鉄道の夜を書いた宮澤健治は……」「宮沢健治の世界“よたかの星”」なんてのがボロボロ出てくる。その数およそ20件。
しかし「みやざわけんじ」の情報が20件しかないなんて、いくら何でもありあえない。なら“急がば回れ”で、今度は「銀河鉄道の夜」で検索してみる。約6270件。書誌情報やレコードの情報がぞろぞろ出てくる。で、岩波書店の公式サイトを含めて例外なく“宮沢賢治”。これで一件落着(ほんとは宮澤賢治だと思うけど)。
ともかく、この程度の用途なら、いちいち出版社のサイトに行く必要もなければ、オンラインショップや百科事典のサイトに行く必要もない。こんな時、ふと「ものすごく優秀な検索エンジンさえあれば、あとはゴミだろうがクズだろうが、世界中のサーバーにありったけのデータを詰め込んでおけば、それなりに使えちゃったりするかもなぁ(……サイトナビゲーションのデザインで苦労するなんてバカみたい)」と、クラクラするのだけど、これは一概に風邪の熱のせいだけだとも思えない。いかがでしょうか。


[2001年03月01日]