N/A

情報環境をビジネスにする可能性

情報環境という言葉に思い至ったのは数年前、新聞社がWebサイトを立ち上げた頃だ。当時僕は知人とインターネットでなんか面白いことをしようというので会社を立ち上げたところで、メインのクライアントを獲得して「さて次は」という話になったところで、「Webで新聞を読むとはどういうことなのか」という議論になったのだ。つまり「紙の新聞を読むこととWebで新聞を読むことは同じか否か」ということである。
結論から言えば「それはまったく違うことである」になる。それは「Webでは全紙面を読むことができない」とか「記事の大きさのメリハリに欠ける」ということもあるのだけど、むしろ「紙の上にインクで刷られた活字とディスプレイ上のデジタルテキストの本質的な違い」、あるいは「新聞受けから新聞を引き出し、朝食のトーストをかじりながら読む、あるいは駅の売店で新聞を買い、電車を待つホームで縦二つ折りにして読む」……そういったスタイルが持つ意味合いにおいてである。
昔、マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言ったが、それはたぶん「同じ情報でもそれと接するスタイルが異なればそれは異なったメッセージとなりうる」と若干の言い換えが可能なのではないかと思う。そして、それは「僕らは新聞が掲載している情報にお金を払っているのか?」という疑問とも結びつくことになる。それは、僕らがお金を払っているのは情報に対してではなく、その情報を読むスタイル、情報に接する環境=情報環境に対してではないか、という疑問である。
そういった議論の末、僕らは「情報(コンテンツ)だけではお金は取れない」という結論に達し「人々に情報と接する環境そのものをサービスして支払いを受けるシステム」が必要だということになった。そしてその環境は「紙とインク」によって作られるそれとはまったく異なったシステムになるだろうと思った。1995年のことだ。


■出版業は人類最古の情報産業である
僕らが何故そんなことを考えたのかといえば、僕らがほぼ全員出版業界で仕事をしてきた人間だからだった。人類最古の商売が売春だった、というのは本当かどうかは知らないが、出版業がおそらく人類最古の情報産業であることは確かだろう。当時すでに一部で出版の危機は認識されていた。業としての出版はおいても“雑誌”は急速に詰まらなくなり始めていた。雑誌が好きでこの業界に入ってきた僕にしてみれば、それは僕自身のアイデンティティを危うくする状況だったのだ。
なぜ雑誌が詰まらなくなっていったのか、理由は様々だろう。しかし、僕自身はその最大の原因は広告にあると見ていた。むろん「雑誌から広告をなくせば雑誌は面白くなる」というのはあまりに短絡的過ぎるし「広告のない雑誌がはたして雑誌と呼べるのか」という疑問ももちろんあるが、しかし一方で「広告抜きでは雑誌が成立しない」というのもまた事実で、明かに雑誌本体と広告の比重は逆転しはじめていて、本文記事がまるで広告チラシの裏埋め草にしか見えないようにもなりつつあった。もちろん、広告が載らなくなっては困るというので記事本文に必要以上のバイアスがかかる、ということも問題もあった。
簡単に言ってしまえば、僕はインターネットに“広告抜きの雑誌”の可能性を見ていたのだ。それは「広告は悪者である」を意味しているわけではない。「読み手が必要な時に必要な情報として提供されるのであれば広告は本文記事になりうる」ということである。Webの最大のメリットはそれがプル型の情報配信システムであることだ。そして、いくらでもパーソナライズの可能なメディアでもある。それは「紙とインクでは不可能な“広告を記事として提供すること”がインターネットならできる」を意味している、つまり、「インターネットは雑誌をよみがえらせる潜在能力を持っている」と僕はそう勝手に思いこんだのだ。


[2001年02月01日]