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論理的に構築された『徒然草』は面白いか?

インターネットには個人の日記ページが膨大にある。膨大に……というのは、gooで検索して約14万件、Googleで検索して約149万件というようなことだ。140万と14万ではずいぶんと開きがあるが、どちらにしろ全部に眼を通せるような数ではない。
たとえば、日記ポータルとして有名な日記猿人(今年元旦から『日記才人(にっきさいと)』に名称変更)サイトのトップページ・カウンターは1500万を超している。現代日本人の生活がリアルタイムにデジタルデータ化されつつあるわけで、なかなか壮絶な話だがそれについてここでどうのこうの言うつもりはない。
さて、日記とはその日に起きたこと、体験したこと、感じたことを書き記したものだ。日記は論文ではないから、そこに文書としての論理構造や論理展開は要求されない。ただただ、思いつくまま……インターネットの日記に限らず『徒然草』の昔から、日記は徒然によしなしごとを書き綴るというものなのである。そこで論理展開などしようものなら、かえって理屈っぽいという理由で日記としての評価が下がりそうな気さえする。
数年前に『妊娠小説』という評論で話題になった斎藤美奈子さんという書き手がいる。小説の中で出てくる“妊娠という事件”をキーワードに、日本文学(特に私小説)がどのような論理構造を持っているかを解き明かしたのが『妊娠小説』なのだが、この作品、一部で高い評価を受けつつも“文芸批評”としては評価されていないようだ。というのも、この作品の結論というのが「妊娠という事件を扱った日本文学は若干の差異は認められるものの構造的に見るとほぼ同型である」だからだ。
たしかに仰る通りなのだが、それはまるで人間の身体をレントゲン撮影して「同じ骨格だ」と言っているようなもので、頭蓋骨がここにあって胸骨と脊椎があってそれが大腿骨と……そりゃそうだけど、人間の個別性というのは骨格にあるわけではない。ブンガクというのはその同じ骨格でありつつも異なる微妙な個人的な陰影を描写するもんなんだから、骨格が同じだって言われたって困る……その微妙な陰影の描写の優劣を語ることこそが文芸批評なんだからね……ということだろう。実際、『妊娠小説』に違和感を覚える人は多いし、その人にこういった説明をすると「ナットク!」という顔をするのだから、たぶん、それが日本人の普遍的な感覚なのだろうと思う。


■ブンガクはドキュメントではない
こういう話はいわゆる“日本の特殊性、独自性”という話に結びついていきかねないので深入りしたくはないのだが、情報デザインという観点から見るとそうもいかない。それは僕ら日本人にドキュメント、あるいはテキストという情報伝達形式を無意識のうちにこういった「文章=文書=ブンガク的なもの」と捉えてしまう傾向があるからだ。
たとえばよく言われるのは「日本語は最後まで聞かないと結論がわからない。最後まで聞いてもわからないこともある」ということだが、情報を伝達するための文章=ドキュメントとして考えるなら「結論がよくわからない」というのは文章として機能していない=ドキュメントになっていない、ことになる。ではそういった「結論のよくわからない文章」に何の機能もないのか、というと実はそうでもない。むしろ結論をはっきり書かない分、書き手の逡巡や気分はよく伝わってくるし、むしろそのほうが評価されたりする。
と、ここまで読まれて「はー、そうか」と思い当たった方もいるかもしれない。というのは小学校以来の国語教育、作文教育がそういうものだったからだ。作文教育で重視されるのは論理や結論ではない。先生が生徒に言うのは「あなたの感じたことや思ったことをそのまま書きなさい」であって「それは何故か、どうしてそう感じるのかを論理的に書きなさい」ではない。せいぜい言われるとしても「文章には起承転結が必要です」だが、これも文章をストーリーとして成立させるための要件でしかない。
と、作文教育について愚痴をこぼしていてもしょうがない。まずは「文章もデザインされるものである」と考え直すところから始めるしかないのだ。むろん、日記やブンガクもそうでなければならない、などと言うつもりはない。“論理的に構築された徒然草”なんてものが面白くなるとは到底思えないからだ。


[2001年01月25日]