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新世紀気分希薄な新年にあたって

僕は今、はっきりとした正月気分でもなく、さりとて、きっぱりとしたお仕事気分でもない、どうにも形容のしようのない状態にある。自宅には居るものの、このコンピュータはケーブルテレビの回線経由でインターネットに常時接続されているから、メールは飛び込んでくるしウェブでの調べモノにも不自由しない。もちろん、それが便利だと思ったからそうしたのだけど、その分、正月気分を味わえなくなってしまったような気もする。
そうやって、仕事でも休暇でもない中途半端な状態のまま20世紀が終わり、気がついたら世界は21世紀に突入していた。どっちかというと拍子抜けで、その上、20世紀末が終わったという解放感も21世紀が始まったという爽快感もない。酷く損をしたような気分である。でも、考えてみれば“世紀”なんてのはキリスト教の決めごとであって、我々の生活の時間の区切りとは本来何の関係もないのだから、世紀末だの新世紀だのといった実感などないほうが自然といえば自然なのだが。


■限りなくノッペリとしたリニアな時間が流れる時代
しかしながら、このメリハリのない“ノッペリ感”はどうにも気持ちが悪い。昔なら新年を迎えるたびにそれなりの新たな気分というのを味わえたのに、と、つい思ってしまう。「そんなの自分でメリハリ付ければ済む話でしょ」と一笑に付されるのは覚悟の上で書いているので、そういうツッコミはしないように。僕が言いたいのは、社会全体が加速度的にノッペリとしてきているんじゃないか、ということなのだ。
たとえば、朝7時から夜11時までのはずだったコンビニエンスストアは24時間開いている。僕の家の回り半径200メートルにも3軒ある。それにつられて午前3時過ぎまで店を開ける八百屋まで現れた。おかげで店番のオジサンは昼間に店先で熟睡せざるを得ず、揺り起こしても起きない。仕方なく自分で野菜をフクロに入れ、さらに代金をカゴに入れて出てくるという、のどかなんだか、いい加減なんだかよくわからない事態になってる(余談)。
便利といえば便利なんだけど、はたしてここまで便利にする必要があるのか、という気もする。こうなってくると“夜”という言葉もどうも使いにくくて、思わず“暗い昼間”などと呼んでみたくなる。僕が子供の頃は、夜は夜、昼は昼できっぱり別れていて、夜というのは一人ではトイレにも行けないようなとても長くて怖い時間のことだった。だからこそ、朝は爽快で清々しいものとして感じることが可能だった。たぶん、今の子供たちは、僕が子供だった頃の朝の雰囲気を感じることなんて、もう出来なくなっているんじゃないかと思うのだ。少々気障に言うなら「朝を失った子供たち」。


朝を失うということは、極端に言うなら自然のリズムによる心理的なリセットができなくなる、ということを意味する。我々だって自宅に仕事を持ち帰ることで週末の休みがなくなれば心理的疲労は溜まる一方だ。朝を失ってしまった子供たちにいったいどれだけの心理的疲労が溜まっているのか、と考えると少々恐ろしくなる。というのは、人間というのは必ずどこかで失ったものを取り返そうとするからだ。それを器用に小出しに出来る子供たちもいるが、極めて過激な形でリセットしようとする不器用な子供たちもなかにはいるはずだ。
去年の暮れのニュース番組は何かというと「17歳の犯罪」だった。で、一方で「子供を信頼しろ」といい、一方で「道徳教育の復活を」という。これはこれで間違っているとは思わない。信頼するということは人間として扱うということだし、子供は社会化されなければならないという意味では社会の枠組みを教えることも必要だろう。しかし、それだけで解決する問題だとは僕には思えない。今の子供たちは我々が育ってきた環境とは全く異質の環境に生きていること、さらに大人がそれに気が付いていないように見えるからだ。
なんだか、正月早々、情報デザインとは縁もゆかりもないことを書いてしまって気が引けるし、そもそも僕なんかがどうこう言う筋でもないとは思うが、本来気が付いていなければならない人たちが気が付いてないとすれば、誰かが言うしかない。みんな自分が子供だった頃の環境を前提にモノを言っているようにしか見えない。現状が正確に把握できなければ有効な対策など立てようがないでしょうに…。
僕が「情報をデザインするということ」、あるいは「情報環境をデザインするということ」を自分の仕事にしようと思ったのは、そういう問題に対して自分なりに出来ることをしようと思ったからなのだ。だから、僕の目的は、ビジネスにあるわけではなく、ましてやお金儲けのためでもない。てなことを新年にあたって、あるいは新世紀の始まりに確認しておこうと思う。
自然環境は我々の手でコントロールすることはできない。しかし、この環境、情報によって作られている環境は我々自身が作り出したものであり、その気になればコントロール可能なはずである。そして、それをコントロールするためには、それがどのようなモノなのか、しっかりと見極めることが必要だ。
現時点での情報デザイン・情報環境デザインの目的とは、我々の情報環境を正確に把握・分析し、よりよいモノにリ・デザインして次の世代の子供たちに残すことだ。そして、それを社会運動としてではなく、あくまでビジネスの領域でどのように実現するか、ということなのだと思う。そんなこと、出来るか出来ないか……そりゃやってみなくちゃわかんないでしょう。ということで、僕のお正月はこれにて終了。

[2001年01月11日]