N/A

ビートルズは聞く人によって音楽にも雑音にもなる。話

僕が初めてビートルズを聞いたのは中学2年生の時だ。当時、ビートルズを聞くのはもっぱら女の子で、男の子にはむしろベンチャーズのほうが受けが良かった。でも、どちらにしろ多くの大人たちは「あんなものは音楽じゃない。雑音だ、騒音だ」と噛みついた。
当時の僕はなぜビートルズを雑音だと言うのか理解できなかったが、今になってみると理解できなくもない。それは、僕がラップを聴いて「これは音楽ではない」と思ったから……ではなく、「あるデータが情報となるかどうかは受け手が決定する」ということに気が付いたからだ。
音楽というのはあるルールに則った音の連なり、と定義できるが、もし、そのルールが理解できないとき、あるいは全く初めて体験するルールである場合、その音の連なりはたしかに雑音にしか聞こえないであろう…という推測が成り立つ。
つまり、何かを理解するためには受け手の側にそれを受け止めるための準備、あるいは枠組みのようなものが必要なのだ。その準備がないとき、どのような重要な情報であっても、人はそれを情報として受け止めることができない。
こんな経験はないだろうか。メーリングリストやBBSにちょっとした意見が書き込まれているのを目にする。テーマは何でもいいのだが、あなたにとって、その時点であまり興味のないテーマの場合、まったく気にならないわけでもないものの、なんとなくピンと来なくて見過ごしてしまう。
が、それからしばらくして、そのテーマに突然フォーカスが合うとはっと気が付く。そういえば、このテーマで面白い記事を目にした記憶があるけど、あれはいったいどこで見たのだろう……。と
あるいは、1年ぶりにスニーカーを買い換えたとする。ちょっとマニアックだが普通のスニーカーとはひと味違うDCSHOESのスニーカーだ。真新しいスニーカーに履き替えて街に散歩に出る。途端に他人が履いているスニーカーに目が行ってしまう自分に気が付く。あるいは、ぎっくり腰に襲われた後は、街を歩いていて、歩き方のおかしな人を見たときに「あ、この人は腰が悪いな」と見抜けるようになる。とか。
サッカーでも野球でも競馬でもなんでもいいが、ルールや背景情報(コンテクスト)がわからないまま見てもまったく面白くない。ボールを追っかけて走り回って何が面白いのだろう。小さな玉をなんであんなに一生懸命投げたり打ったりするのだろう。玉を受け止めたぐらいでどうしてあんなに大騒ぎするのか……ルールを知らずにスポーツを観戦するのはまるで電子顕微鏡で分子のブラウン運動を見るようなものだ。そこから自分にとって意味ある情報をも引き出せないからである。まして興奮することなど、できるわけもない。


■データが情報になるのは一種のデキゴトである
あるデータが受け手にとって情報になるためには、そのデータがあるルールに則っていることを理解できなければならない。また、そのデータにフォーカスされているタイミングでなければならない。
他にもあるかもしれないが、少なくともこの2つの条件が満足されない場合、データは情報として受け止めることができないのだ。というわけで、情報とは、データが情報になるコト、起きるコトであって、予め存在しているモノがA地点からB地点に移動することではない。
僕がいまこうやって書いている文章も同じだ。僕は僕が考えていることをこうやって文字に置き換えている。しかし、この文章は僕の考えていることと同じではない。そして、これを読んでいるあなたの頭の中に(心の中に)生まれた情報も同じように、この文章と同じではない。いま、僕とあなたとの間に起きているコトは、1つの文章あるいは言葉を挟んで起きた別のデキゴトなのだ。この2つのデキゴトが非常によく似通っている場合、僕らは「情報が伝わった」と言う。
しかし、それは伝わったように見えるだけではあって、実は伝わったのではなく、言葉の両側に同じイメージが喚起されただけなのである。1つの言葉が極めて近似の2つの事件を起こした、と言い換えてもいい。
我々人間が日々行っている言葉によるコミュニケーションは、電話回線を通じてデジタルデータが信号として行き来するという物理学的な伝達モデルとはまったく異なるモデルなのだ。そういった物理学的な伝達モデルで人間のコミュニケーションを解釈しようとすれば奇妙な間違いが起きるのは当たり前だ。そもそもが勘違いなのだから。
「人間の言語によるコミュニケーションは、伝わらないことを前提として考えるべきである」というのが最新の言語学のテーマだそうだが、僕はそれは正しいと思う。僕らは、伝わって当たり前ではなく伝わらなくて当たり前と考えることから始めなければならないのだ。僕が考えている情報デザインもまた「伝わらなくて当たり前」からスタートする。


[2000年12月14日]