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我々は情報という名の分厚いコートを着ている。か

先週、僕は「情報環境とは何か」を定義しようとして「南の島とは何か」のような話になってしまったのだが、これはよく考えてみると“よく出来た話”なのかもしれない。
僕のような都市生活者にとって、南の島はまずリゾートであり、パラダイスであり“最後の楽園”である。ということは、人間の手によって作られた人工的な情報の不在こそが楽園を成立させる……という話になるからだ。つまり、僕らは南の島で物理的に裸になるだけではなく、身にまとわりつく過剰な情報…それは冬の厚手のコートのようでもある……を脱ぎ捨てて“楽園の住人”になるのである。
さて、これで「情報の定義」の一つがなされた。僕がこのコラムで使う情報という言葉は、基本的には“人間の手によって作られるデータあるいはシグナル”を指す。もう少し突っ込んだ言い方をするなら“人間が情報として読みとれるデータあるいはシグナル”となる。
で、“情報として読みとれる”は“意味を読みとれる”と言い換えてもいい。ということは「$0日×ggg34身荘け」という文字列は情報ではない、ということになるし、あるいは「I love you」も、英語がわからない人にしてみれば情報ではない、となる。アルファベットを見たこともない人にとってみれば、それはシグナルですらないかもしれない。
ということは、ある人にとって、特定のデータやシグナルから意味を読みとれなければそれは情報ではない、情報とよぶべきではないということになる。ここで重要なのは「ある人(=受け手)にとって」の部分だ。つまり、情報の発信側が情報のつもりで発信してもそれを受け手が情報として受け止められなければ、それは情報ではない……ことになるのだから、あるデータが情報となるかどうかは受け手が決定するということになる。論理的には。
突飛な仮説に見えるだろう。僕も最初は「ほんとかよ、おい」と自分で考えながら思ったくらいだ。
しかし、そう考えてみて初めて腑に落ちることはたくさんあるのだ。それをこれから説明していくつもりなのだが……。心配なのは「そんな話がどうビジネスと結びつくのか」という疑問をお持ちになるであろうことだ。
でも、ここで明確にならないと先に進めないのだ。たとえば「あるデータが情報となるかどうかは受け手が決定する」という仮説の元に「情報とは何か」というテーマについて語られた本を読むとまったく読めなくなる。それらの本はたいがい「情報は受け手とは関係なく存在する」という、ある意味常識的な理解の元に書かれているからだ。その常識的な前提、暗黙知を前提として組み立てられた論理をこの仮説「あるデータが情報となるかどうかは受け手が決定する」はほとんど無効にしてしまう。
……これだけではいかにも舌足らずで何のことやら、だ。次週はもう少しじっくりご説明することにしたい。では。

[2000年12月07日]