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沖縄で「情報環境」を再発見する

今年の夏、生まれて初めて沖縄に行った。といっても沖縄本島ではなく八重山諸島の中心、石垣島だ。内地の人間は石垣島も沖縄と呼ぶが、島の人たちにとっては石垣は石垣であって沖縄ではない。そんなニュアンスを言葉の端々に感じた……。ともあれ、僕はあこがれの“南の島”沖縄に行った。が、そこは僕の思い描いていた"南の島"ではなかった。
南の島、特に限定をする必要はない。若者に人気のバリでもいいし、プーケットでもボラボラ島でもかまわない。ともかく、僕はその南の島で南の島特有の奇妙な解放感を味わう。強烈な日差し、熱帯特有の湿った空気、あるいは人気のないビーチ、それらが僕の中の非日常的な本能のようなものを呼び覚ますからなのだろう。僕は本能を刺激され自然に帰るのだ。と、そう決めつけていた。
しかし、沖縄はその南の島ではなかった。強い日差しも熱帯の湿った空気も人気のないビーチも沖縄にはある。コバルトブルーの海もあるしマンタだっている。沖縄は十分にエキゾチックだ。にも関わらず、なぜか海外の南の島で味わうあの独特の解放感を感じることができない(僕だけかもしれないが)。では、南の島にあって沖縄にないものとは何なんだろう……何が足りないんだろう。
そう考えてみて、はたと気が付く。むしろ逆だと言うこと……つまり沖縄にはあるが南の島にはないものがあること、欠如こそが解放感を生み出す原因であることに。
南の島でビーチ沿いのメインストリートを歩く。見上げる看板は現地の文字、あるいはアルファベット。聞こえてくる言葉は現地の言葉、あるいは英語。場所によっては「シャチョウ、シャチョウ……」というニホンゴが聞こえてくる場合もあるが、そのシャチョウは社長ではないし、ミヤゲモノはミアグモノに奇妙な文字化けを起こしていたりする。それらは日本語のように見えて実は似て非なるモノ。日本というコンテクストから解放された何か別の言葉、つまり、日本語ではなくニホンゴなのだ。
我が沖縄にあって、海外の南の島に「ない」もの、それは日本語であり、その日本語によって伝達される情報だ。強い日差しや…熱帯の…を自然環境だとするなら、この情報によって作り出される環境は「情報環境」と呼べるのではないか……。僕は「なぜ沖縄には南の島特有の解放感がないんだろう」とつらつら考えていて、そんなことに気が付いたのだ。そんなことを考えるのは、毎日PCの前にかじりついて「情報環境」にどっぷり浸かっている僕だけの話かもしれないが。


■定義:「情報環境」とは具体的に何を指すのか
僕はいま「情報によって作り出される環境を情報環境と呼ぶ」と書いた。もう少し説明するなら「森や海や山や植物や動物や微生物やバイ菌が作りだす環境を自然環境と呼ぶなら、ビルや橋や道路や自動車やガス管が作り出す環境は人間が作り出したという意味で人工環境だろう。そして、その人工環境の中で様々なメディアを通じて交換される情報によって作り出される環境は情報環境と呼べる」になる。
さらに「この情報環境にはインターネットのようにワールドワイドに開かれた環境もあれば、ゲームソフトが作り出す閉じられた環境もあるし、テレビやラジオが作り出すメディア環境もあれば、書籍や雑誌が作り出す活字環境みたいなものも含まれる。朝起きてテレビを見、通勤電車の中で新聞を読み中吊り広告や駅貼りポスターに目を走らせる。会社に着けばPCの画面、打ち出されたプリントアウト…と起きている時間はほとんどなんらかの形で情報とつきあっている都市生活者としては"情報によって取り巻かれている"というのは結構リアリティのある感覚なのではないか」とも書ける。
この、自然環境、人工環境、情報環境…という三段階説は比較的イメージしやすい。まぁそんなもんかと思う。情報化社会ってのも情報環境を言い換えたようなもんだし…とも思う。が、でもまてよ、じゃあ我々の遺伝子の持つ塩基配列は情報とは呼べないのか…という疑問が頭の中をよぎる。もしそれを情報と呼ぶなら人間、いや生物そのものも情報環境だし、そもそも原子も分子も情報ではないか、ということは、この全宇宙は情報環境である…って言い方も成立するぞ。それじゃこの3つの区別はいったい何を意味しているんだ? 何も言ったことにならないじゃないか。
そうなのだ。この三段階説は間違っている……というか「情報とは何か」を定義しなければ「情報環境」は定義できないのであった。残念。……ということで、次週に続く。


[2000年11月30日]