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コラボレーションとグループウェア


NTT出版から出てる「組織とグループウェア」を読んでいるが、コラボレーション、グループウェアというのは思った以上にやっかいな問題を含んでいると思う。実現性という観点から考えると、ひょっとすると人工知能よりも難しいかもしれない。エキスパートシステム(人口知能研究の副産物)程度のものさえ出てこない可能性がある。


理由は……人工知能というのは一人の人間の認識や思考をシミュレートすることだけど、グループウェアというのは複数の人間の相互関係をシミュレートしようとするものだからだ。人間がどうやって認識しているかもよくわからないのだから、その相互の交流なんて、わかるわけがない……という気がする。DTPやインターネットとは意味が違う。まだしもCALSのほうが現実的だ。


だいたい「コラボレーション」とはどういうことなのか、何が起きているのかがわからない。どうすればコラボレーションが成立するのかさえわからないのだから。というよりもっとまえに、情報の意味が受け手によって違う、理解の度合いさえも違う、ということがある。もし何か意味のある結果を引きだそうとするなら、相当テーマを絞り込まないと人工知能の二の舞になると思う。


最初のテーマは「いかに共通理解を実現するか」あるいは「コンテクストを創り出すか(それを支援するか)」ということになるだろう。僕が昔から言っている「理解プロセッサ」がグループウェアの前に来ると思うんだけどなぁ。


たぶん、前に書いた「ネットワーク的メディア」のほうがむしろグループウェアに近いところにいるような気がする。あれは人間の多様性にベースをおく考え方だからだ。個人の多様性という意味もあるし、一人の人間が時と場所によって異なった役割を演じる、ということも含んでいる。人間は同じところにとどまっていれば慣れが生まれる。それは快適であるものの、その快適さは、新しいモノを生み出すには邪魔になる(場合が多い)。だから、こういう意味でのコラボレーションをサポートするためのテクノロジーというのはおそらく、その役割を明確にすることを支援するようなものになるはずだ。あるいは逆にできることを限定するようなものかもしれない。


▼制度としてのグループウェア

ともかく、グループウェアによるコラボレーション(ヴァーチャルオフィス)には今の所大きな欠点がある。それは「読まれない可能性があること」そして、それが他のメンバーにわからないということである。実際の会議でも上の空で他人の話を聞いてない、ということはあるが、そういうのはなんとなく雰囲気でわかる。しかし、ヴァーチャルになるとそれがまったくわからない。


この「読んでいるか、いないか」をチェックする機械的な方法はない。なぜなら、ディスプレイに表示させても読まないということは可能だから。何かそれに対するレスポンスを書かない限りチェックのしようがないのである。つまり、グループウェアを機能させるためには「強制的にレスポンスを書かない限り終了できない」というような機能が必要だ。できるかどうかは別としてだが。


こういう仕組みを人間社会では「制度」と呼ぶ。つまり、人間の自由意志に一定程度の枠をはめる仕組みだ。人間なんてなものは放っておけばさぼるし、間違うし……といういい加減なもんなのだ、ということを前提にシステム(コンピュータだろうが社会制度だろうが)を設計しない限りまともには機能しない。「コンピュータは人間を自由にする」なんてノーテンキな西海岸ヒッピーの生き残り的なノリではグループウェアの実用化は極めて難しいと言わざるを得ない。


さもなくば、自発的な倫理性が要求されることになるだろう。それは一見高尚に見えて、実は制度という枠組みよりももっと質(たち)が悪い。なぜなら内面的に人間を拘束することになりかねないから。強制された倫理性というのはそれだけで語義矛盾であり、それはむしろ道徳と呼ばれるものに堕落する。倫理性とは自発性の別の呼び方に他ならないからだ。QC活動なんてのはその見事な例であり、あの気持ちの悪さは新興宗教の気持ち悪さに実によく似てしまうのはそのせいなのだ。


こういった人間的な側面の考察抜きにテクノロジーだけでグループウェアを作れると考えるなら、それはエンジニアの傲慢(あるいは無知)と呼ばれてもしかたがないだろう。


▼情報共有ではなく単なるファイル共有だ

「情報共有」はかけ声で終わる。もし、その内実に誠実な検討が加えられないならば。もっとラジカルにいえば「共有」は可能か? さらに「所有」は可能か? という問題が立てられなければならない。で、これにはすでに答えは出たも同然で、「我々は情報を所有することなどできないし、ましてや共有することなど不可能である」ということだ。


いま言われている「情報共有」というのは単に「ファイル(データ)へのアクセスを許可する」という以上のものではない。簡単な例を出すが、ここにラテン語の論文ファイルがあるとして、ファイル共有設定がなされているとする。誰でも見られる……が共有は成立しない。どころか誰一人として所有することさえ不可能だ。読めないんだから「理解」そのものが成立しない。


こういう状態で安易に「情報の共有」なんて言葉を使えば、事態はどんどん見えなくなっていく。実体のないものに名前を付けてしまうと、まるでそれが実際に存在しているかのような錯覚をもたらす。こういう言葉の使い方は絶対に避けるべきなのだ。


▼データの共有のそのまた一段階前の話

しかし、現状がどうかといえば、実はデータの共有すらできていない。なぜなら「データの作成」そのものがおざなりにされているからだ。あるいは「データ」の定義がまったく不十分だと言ってもいい。たとえば「今日は自宅で原稿を書いています」……これはデータではない。まぁデータだとしても極めて不十分なデータだと言える。なぜなら「状況がまったくわからない」からだ。


その原稿は何の原稿なのか、締切まぎわなのかそれとも締切は1ヶ月後なのか、同じ「原稿を書く」でも、こういった属性が異なれば、他人の対応はまったく異なってくる……つまり「今日は自宅で原稿を書いています」は実質的な意味を持たない。つまり、情報(意味)を読みとれないデータはデータですらない、ということなのだ。


いったいどこまで書けばデータとなるのか、そのデータを効率的に作成する方法はあるのか、……そういったことからはじめなければならない。だから、僕は「グループウェアはそんなに簡単ではないぞ」と書いたのである。


引っ越しを始めてから1ヶ月が経ちます。「なにやってるんだろね」と自分でも思うのだけど……ははは。で、いま、コンピュータも電話線もなくなった昔の事務所にいて、原稿を書いています。椅子も机もないので床に座って荷物の詰め込まれた段ボールの上にノートパソコンを置いて。膝の上には猫がいます。そう、カナちゃんはまだここにいるのです。それで、電話がかかってくる予定もない日にはできるだけここに来て一緒にいるようにしています。


ノートパソコンがあればどこにいても仕事はできる……というのは理論的にはそうなんだけど、「原稿を書くだけ」のライターは別として、いろんな連絡や仕事のダンドリ、スケジュール調整をやるとなると、けっこういろんなファイルを扱うことになります。複数のソフトを使って複数のデータファイルを扱っていると、必ず「忘れ」たり「間違っ」たりします。特にファイルサーバーを共有してる場合、一つ間違うと大変なことになる。それに「このファイルはここにいれて、あれはこっち……」と気を遣う。


でもノートパソコンの中にFirstClassのサーバーをインストールして同じコンピュータでクライアントを起動してアクセスし、すべての仕事をFirstClassの会議室にテキストとして書き込んで、事務所のFirstClassサーバーとゲートさせれば「何も考えなくても」然るべき情報が然るべきところに書き込まれます。


僕はコンピュータを扱うのがあんまり得意でも好きでもない。ファイル管理なんて考えずに済めばこれに越したことはない、と思うようなタイプの人間です。僕にとってFirstClassはファイル管理ソフトを兼ねていると言えます。これがなかったら、「事務所に行ったらこのファイルをあそこに入れて、こっちのファイルを更新して……」てなことが気になって、こんな風にのんびり猫と一緒に原稿書いたり仕事のダンドリしたり、日記を書いたりする心の余裕は生まれないだろうな、と思う。

 
FirstClassがなかったら、きっと僕はバーチャルオフィスからは落ちこぼれると思います。やろうとも思わなかったでしょう。機能から考えればFirstClassよりもARAのほうがいい、という話は良く聞くけど、それはコンピュータを扱うことが好きな人の話だと思う。でも、少なくとも僕にはそれは当てはまらない。そして、僕みたいな人間もたくさんいるはずだと思う。FirstClassでもまだダメっていう人だっているはずです。そういう人に「使えなきゃ落ちこぼれるぞ」というようなことは言って欲しくない。そんなのは「パーソナルコンピュータの思想」じゃなくて「汎用機エリートの思想」です。


DOSWindowsユーザーやUNIXユーザーがこういうことを言うのはまだ許せる。しょうがないなぁ……という苦笑とともに。でも理解できないのはマックユーザーでこういうことを言う人がいるってことだ。僕が見る限り、マックって「どうやって落ちこぼれをなくすか」をベースに考え出された機械に見えるからです。だってそうでしょう? 情報を共有する上で、落ちこぼれがいたら目的が達成できなくなる。情報を扱うためにある程度のスキルはどうしても必要なのはわかる。でもそれは機械側のどこまで下げられるか、の努力があってはじめて誰もが納得する(落ちこぼれが少なくなる)んだと思う。情報共有のベースができる。マックはなんだかんだ言ってもその辺はすごく考えてある。だからこそ、僕にも気持ちよく使える……なんとかついていけるんだと思う。

……べつにだからどうしたってことじゃなくて、雨の日の独り言。