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別冊宝島『新・メディアの作り方』[序章]


■MEDIA IS DRUG
 「メディアはドラッグである」

こんな言葉は聞いたことがない。でも、このフレーズを頭に浮かべてみると、それが奇妙な説得力をもっていることに気づいて、そして僕は少し狼狽する。「説得力を感じる」なんてのは、僕が「メディア・ジャンキー」だって公言しているも同じだから。「メディア・ジャンキー」というのは、文字どおり、そのまんま、で比喩でも何でもない。メディア中毒者だ。で、僕がメディア中毒であることを隠すつもりもない。そして、ここでの目的はメディア・ジャンキーを批判することでもないし、客観的なメディア批評みたいなことをすることでもない。

むしろ、この本は「みなさん、自分のメディアをもちましょう。そのためにはカクカクシカジカ……」という、とんでもない内容で、それはまるで「みなさん、ドラッグは素敵です。みんなでやりましょう」と言っているようなもんだ。つまり、ここでの「メディア」は客観的な評論や批評の対象なんかではなく、われわれを誘惑してやまないドラッグとして定義されているのだ。誰がそんな定義をしたのかって? 僕が定義したんだよ。


■メディア漬けの日々を送る私

ドラッグ、ドラッグと大声で騒いでいると誤解されそうなのであらかじめ断わっておくけど、僕はドラッグなんか(アッパーもダウナーも)やってない(いちどもやったことがないとは言わないけど)。僕はドラッグ漬けになるよりもメディア漬けになっているほうが快感なんだ。でも僕の「メディア漬け」ってのは「何かおもしろい番組はやってないか」と朝から晩までテレビを見る、というようなのとは違う*1
 僕がメディア漬けになるというのは、たとえば一日中、コンピュータのディスプレイに向かって文章を書きつづけるようなことなのだ。そうでなければイラストを描いたり、デザインをしたり、写真を撮ったり……表現行為をしつづけることなのだ(それが表現になっているかどうかは、また別の問題だ)。ほとんど変態みたいだけど、でも事実。旅行もしないし遊びにも行かない。動かないから身体の調子も悪くなる。どこから見ても本物の中毒患者。


■もうひとつのメディア・ジャンキー

もちろん、メディア・ジャンキーにはもうひとつのタイプもある。むしろ、こっちのほうが一般的なのかもしれないが「自分を興奮させてくれる何かがメディアを通じて送られてくるんじゃないか」と期待してメディアを追いつづけるタイプだ。いうならば「情報消費志向型ジャンキー」。僕のようなのは「情報生産志向型ジャンキー」……ちなみにパソコン通信の世界では、自分から情報を出すことを「アップロード」といい、他人が出した情報を引き出すことを「ダウンロード」という*2ので、これと、ドラッグ用語をごちゃまぜにすると、消費志向中毒者は「ダウナー」、生産志向中毒者は「アッパー」ということになる。

こう書くと、まるで「情報を生産する僕は偉いが、消費する君は偉くない」と言っているように聞こえるかもしれないが、そんなことを言うつもりはないし、思ってもいない。どっちにしろバランスが崩れてるんだから。

常に新しい情報を求めてメディアを追っかけるのも異常なら、こうやって、どうでもいいことをグチャグチャ書きつづけるのも同じように異常なのだ。もちろん「書きつづける」というのは比喩であって、客からお金を取って下手な演奏を平気で聞かせるバンド・キッズも、昼夜を問わずパソコン通信しつづける通信マニアも同じ。さらに言うなら、こんな本を読んでるあなたも立派な「メディア・ジャンキー」です。ご安心ください。

しかし、メディアなんて電線や水道管みたいなものなんだから、正常に機能しているならジャンキーを生み出すようなものじゃないはずなんだよね。僕みたいな変態的なメディア・ジャンキーが出てきたり、パソコン通信にハマる奴がいたり、バンドの追っかけやる奴がいたり、小さなメディアがわさわさ出てきたり、ミニ宗教が隆盛を誇ったりするって、今のメディア*3が変であることの証明なんだと思うけど……わははは……どうも風向きがおかしい。次行こう、次。


■私はなぜメディア・ジャンキーになったのか

「メディア中毒なんて不健康よ。気持ち悪い」なんて言われたって困るんだよな、反論なんかできないし。でもね、僕だって生まれつきこういう変態ジャンキーだったわけじゃない。昔はほかの奴とおんなじように「なんかおもしろいことなーい?」とか言いいながら、テレビ見たり雑誌を読んだりしてた。おもしろいといったって吉本新喜劇を観ようというわけじゃない。僕は僕を刺激してくれるものを「おもしろい」と言うのだ。それは人の場合もあれば、社会現象のこともあれば、小説のこともたまにある。テレビや雑誌を読むというのはそういうものが紹介されていないかをチェックするということなのだ。そして、そういう刺激的なものを独自の視点で紹介する雑誌が、一九七〇年前後には確かに存在していたのだ。おそらくそれは、社会の状況そのものが刺激的だったからだと思う。でも七〇年を境に日本の社会そのものがよく言えば平穏、悪く言えば退屈になってしまった。

そういう時代をやり過ごす方法はふたつある。ひとつは「つまらないものでもおもしろがってしまう」という方法で、たとえばバンドの演奏の善し悪しに無関係にいきなりスタンディングしちゃうコンサートの楽しみ方*4みたいなのを言う。でもこういうことは僕はしたくない。そんなことしてるとそのうち本当におもしろいものがあっても、それをきちんと受けとめられなくなりそうだから。まあ若い人は「本当におもしろいものなんかないよ」と言うかもしれないけどね。そして、もうひとつの対応は「おもしろいと思えるものを自分で作り出す」ということなのだ。あるいは「作る過程を楽しむ」ということ。自分でもおもしろいと思えるものを作り出すというのは口で言うほど簡単ではないけど、「作る過程を楽しむ」時には結果はほとんどおまけだから、「あはは、こんな変なものができちゃった」でもいいわけで、これなら才能やテクニックに関係なく誰にでもできる。アッパーというのは、この「作る過程を楽しむ」というやつなのだ。

高校時代のミニコミ作りあたりから始まったようなのだが、その時はそんな意識はなかった。たんに「なんとなくおもしろそうだから」でやってて、その延長線上に今の僕があるというわけ。「メディア」と名のつくモノはもうあれこれ首を突っ込んだ。広告の制作会社のアルバイトからテクニカルイラストレーターになって、それから雑誌のデザイナー兼版下制作者になって……編集者もやればライターもやる、そのうちコンピュータがおもしろくなって、最後に自分でパソコン通信のホスト局をもつことになってしまう。


■目的は自分のメディアをもつこと

「作る過程を楽しむ」のが目的だから「仕事」という意識はほとんどなかった。いつもドラッグに酔っていたようなものだ。だから、職業としてデザイナーやライターや編集者を選んだ、という意識は完全に欠落している。ただ、自分にとってそれらの技術が必要だと思ったから身につけただけなのだ。

というのは、自分のメディアをもちたかったからだ。そしてそのメディアというのは雑誌、それもカルト雑誌(当時はクラスマガジンとかサブカルチャー雑誌とか呼ばれていた)であって、週刊誌やテレビや新聞やラジオなどのいわゆるマスメディア*5ではなかった。僕のなかでの「雑誌」は、そこに参加する個人の趣味や志向や偏向をそのまま出すことが許されるものとして、そして、さまざまな人たちが自分の立場から自由にモノが言いあえる「場所」として定義されていたのだと思う。

もし、僕の理想とするような「場所」としての雑誌があったら、僕はそこに行っていたと思う。でも、そんなものはどこにもなかった。どの雑誌にも僕の居場所はないような気がしたのだ。だから僕は僕の場所を作ろうと思った。そこではじめて僕は自由にモノが言えるようになる、と思ったのだ。

そしてその「雑誌」を、僕はもつことになる。といっても残念ながら、それは本物の雑誌ではなく「電子的にシミュレートされた雑誌*6」、つまりはパソコン通信のホスト局なのだが。でもそれでとりあえずは充分だった。いろんな立場のいろんな感性をもった人たちが自由に発言できる「場所」であれば、形態は二の次だったからだ。だから、僕はいわゆるパソコン通信愛好者ではない。チャットはやらないし、電子メールもあまり使わない。オフラインパーティもやらない。普通は嫌われるROMの人がいても全然気にならない*7。で、とりあえずは充分なんだけど、それで一〇〇%満足かっていうと……。


■ペーパーメディアの不思議な魅力

ひとくちにメディアといってもいろいろある。テレビやラジオももちろんメディアだ。華やかだ。アイドルタレントにも会える。話によるといろいろ役得もあるらしい。ポルシェに乗ってるらしい……。

しかし、テレビやラジオの仕事をしている人たちからは意外なことに「出版はいいですよね。モノとして残るから」と言われちゃうんだよな、これが。最初は嘘だろ、と思ってたんだけど、どうも本気みたいなのだ。彼らは自分の作った番組がその場で消えていってしまうことに、ある種のはかなさを感じているらしい。そして同じようなことをコンピュータのソフトウェア会社の人からも言われる。「ソフトウェアって作ってもあんまり実感がないんですよ。お金が儲かったら出版をやりたい」って。

みんな漠然とペーパーメディアに対する憧れをもちつづけてるのだ。これを「文化コンプレックス」と呼ぶ人もいるし、たしかにそういう面がないとも言いきれないけど、話を聞いているとなんかもっと切実なんだよね。

ペーパーメディアって、テレビやラジオなどのマスメディアとはどこかで決定的に違っているらしいのだ。かくいう僕も自分のホスト局に蓄積された文章を再編集してペーパーを作りたいと、ここ何年越しかで考えている。


■身体感覚の希薄な電子メディア

マスメディア(特に電波メディア)もパソコン通信をはじめとする電子メディアも、実体がない。それは僕らを深いところで不安にさせるらしい。何の手ごたえもないのである。フロッピーディスクなどの磁気記憶は十年もたない……とかいった機能的な問題ではなく、もっと人間の身体的な感覚の部分で「やっぱり紙」ということになるようなのだ。電波は、スイッチを切ってしまえば何も残らない。残った時にこそ、僕らはある種の達成感を得ることができる。そこで終わりになる。

しかしテレビもラジオも、そしてコンピュータのプログラムにも本質的な意味で「終わり」がない。続けようと思えば永遠にだって続けられる。終わりのない作業を終わらせる、ということは、結局中断でしかない。それをどこかの時点で形にしたいという欲求からは逃げられないのである。

というわけで、ニューメディアだハイテクだと大騒ぎしながら、結局のところみんな最終的には「ペーパーメディアが作りたい」になってしまうのだ。じゃ、出版社の人なら仕事でやってるんだから、そんなことは思わないだろう、と思うでしょ? 違う、甘い。

聞いた話だけど、先日亡くなった東京築地の雑誌をメインにする某大手雑誌出版社の会長さんは、会社でのすべての権限を委譲して相談役か何かになった後、自費でミニコミを出していたというのだ。それを聞いて、なんだか寂しい気持ちになってしまった。きっと彼は自分の雑誌が作りたくてその会社を作ったはずなのに、結局最後まで自分の作りたい雑誌が作れなかったってことなんだろうな……と思って。

年をとればそれなりに経済的にも時間的にも余裕が出て、ミニメディアも楽に作れるかもしれないけど、今だからこそ作れるものってあるはずで、それと同じものを二十年後に作れるかといったら絶対に作れない。それぐらいなら、今無理してでもやるべきだと僕は思う。


■メディア作りの風景の変化

ここ十年のテクノロジーの進化というか大衆化のスピードはすごい。十年前のワープロの値段、覚えてます? いちばん安いのでやっと五十万円をきるぐらいだったんだ。それが最近ではちょっと古い機種を探せば十万円以下で手に入る。ファクシミリだって同じ。コピー機だって個人で手に入るぐらいの値段のものが出てる。パソコンもずいぶん安くなった。
 というわけで「自分のメディアをもつ」条件は飛躍的に良くなってる。昔なら何人かで集まらないと一冊のミニコミを仕上げるのは難しかった。かくいう僕も大学時代に友達のアパートに泊まり込みで何日も文字を書いていた経験がある。昔はワープロなんかなかったから文字は全部手描きだったのだ。それも自分の原稿を書いていたわけではなくて他人の原稿を清書してたのだ。人間写植などと呼ばれつつ。

ワープロがあれば、少なくとも「描き文字人」は不要になる。行数の計算も楽だ。いろんな意味で省力化できる。OAならぬ「MA(ミニコミ・オートメーション)」というわけで、その気になればひとりでも作れるようになってしまった。そして実際にも今まで集団で作っていたミニコミが解体してメンバーそれぞれが自分で作るようなことも起こりはじめたし、今まで作れなかった人たちがそれらの機器を使ってひとりで作るケースも増えてきた。ミニメディアよりさらに分化したパーソナルメディアの登場というわけだ。


■つまり「見る前に飛べ」

これだけ環境も進化したことだし、いいんだよ、とりあえずは内容なんかなんでもいいんだ。作りたいから作る、で充分だと思う。

もちろん仲間がいればおもしろいけど、いなければいないでかまわない。メディアを作った結果、仲間ができるケースだってあるんだから*8。とりあえずはひとりではじめて仲間を作るようにしていけばいいのだ。メディアを作らなければ絶対出会えなかったはずの人たちに出会える。それもメディアの本質のひとつだ。

ただ、「見る前に飛べ」なのだが、実際には「飛んだら墜ちた」……という場合もある。飛ぶのは自由になんだけど、みんながみんなうまく飛べるとは限りませんよ、ということだ。後から「おまえが飛べって言うから飛んだのに墜ちたじゃないか、どうしてくれるんだ」と言われても困るものですから、あらかじめ。

自分なりに一生懸命作って人に見せたら軽蔑された……てなこともあるんです。場合によっては嫌われることさえある。たとえば、僕の友人の話なんだけど、その家には子どもがいなかった。で、そいつの友達が、家族ミニコミと称して自分の子どもの成長の過程を写真と文章で綴ってですね、僕の友人の家に律儀に毎月送ってきたんだそうだ。まぁ、最初のうちは「子どもの写真の年賀状」だと思ってそのままごみ箱に捨ててたんだけど、それが一年も続くと封筒見るだけで嫌になって、「ばかやろ、うちの状態を知っててなんでこんなもの送りつけるんだ」と怒りつけたらしい。相手は全然気がついてなかったようだけど。教訓「メディアは相手のことを考えてはじめて道具となる。相手のことを考えなければそれは凶器*9にほかならない」ですね。非常に極端な話だけど、これと似たケースはたぶんいろいろあるんだと思う。問題はテクニックの有無じゃないんだ、きっと。


■パーソナルメディアの光と陰

道具としての「優れた」パーソナルメディアと、凶器としての「勘弁してねと僕が言った」的なパーソナルメディアはどこがどう違うのか、という問題。作家の日常を綴ったエッセイと素人の喫茶店の落書きノートはどこが本質的に違うのかという問題なのだ。それはどちらが優れているかという問題ではない。同じようなことをしているのにどうしてこれほど明確な違いが生まれるのか、という問題です。

この問題はじつは結構難しい。たんなる文章の上手い下手という問題ではなくて、自分と他人との間の関係の捉え方の違いがベースにあるんだと思う。難しく言うなら「個人が他者の存在を前提に、個人であることを突き詰めた結果、ある種の普遍性を獲得した表現」と、「個人が他者の存在に対して無神経のまま自己にアグラをかいた表現」の違い、というようなことなんだろうけど。しかし、だからといって「やるな」と言う権利は誰にもない。だとすれば「やりたいなら勝手にすれば」と言うしかない。

今の日本人は「他人に迷惑をかけなければ何したっていいじゃん」で、そう信じている人に百万回「勘弁してね」と言っても聞いてもらえないのは経験でわかっているから。そういう僕自身、ご覧のとおり好き勝手に書き散らかしている*10わけで、「おまえだって似たようなもんだろ」と言われるのは覚悟の上です。ご心配なく。

……そう問題は「覚悟」です。メディアを作り、メッセージを投げかけたら、相手から何が返ってくるかわからないのですよ。で、メディアを作るということは「たとえどんなものが返ってきても私は受けとめます」ということなんだよね。でなければ作らないほうがいい。覚悟さえできていれば、どんなに非難されてもそれをちゃんと受けとめることができる。受けとめた時点で「やりとり」が成立することになるわけで、もし「覚悟ができてない人」が、ちょっと何か言われただけで逆上して「あなたにそんなこと言われる覚えはない。何をしようと私の自由のはずだわ」って拒否したらそこでおしまい。交渉は不成立。何もしなかったのよりもっと悪い。

何がいけないかというと「自分のメディアとは私の言いたいことが書いてあるものを相手に届けること*11」だとしか思っていないことなんだ。そりゃ日本の郵便制度はしっかりしてるから、物理的に届かないなんてことはないよ。でもさ「メディアが届く」っていうのは「紙が届く」のとはわけが違うんで、そのメディアに載せられたメッセージが相手に読まれた時点ではじめて「届く」ことになる。

で、そこからは、もう相手に任せるほかはない。いい反応が返ってくるかもしれないし、酷評されるかもしれない。もっと悪ければ無視される場合もある。でも、それはあなたの責任であって相手の責任ではない。自分のメディアをもつというのはそういうことだし、出版に関わる人間はだからこそ、文字の種類ひとつにまで気を配るのだ。それは品質の問題ではなく「届く」か「届かない」かというメディアの本質に関わる問題だからね。

ともかく何かを書くということは非常に怖いことです。それによって自分が判断されるわけだから。言葉をかえれば「相手の前に自分を裸で投げ出すようなもの」です。「俎の上の恋(意図的な誤植)」です。

だから、さっきも書いたように相手から反応が来た段階ではじめてそれは本当の意味で「メディア」になる。それまでは言うならば「半メディア」。その反応は賛同でも非難でもいい。相手の反応をもらうことを考える、ということは「読み手はどう受けとるだろうか」と考えることです。そして「どう受けとられるか」を考えるということは「相手の立場を考える」ことにつながるのだ。

たんにメディアを作るということだけ考えれば、メディアを作る道具が手に入れやすくなって、たったひとりでも自分のメディアがもてるようになったというのは、それ自体はとってもいいことだと思う。でも一方、今、書いたように簡単に作れてしまうが故の問題も起きるし、ひとりで作れるということも手放しでいいとは言えない面もある。昔のように複数の人間が集まって共同作業する場合には、必ずといっていいほど対立が起きる。しかしその対立をなんとかして解消しようとする調整作業のなかで僕らは互いの違いを認めなければならなくなって、そのなかでどう協調していくのかを学ぶこともできる。そして、その過程は誌面にも見えないかたちであっても反映される。

ひとりでやればたしかに他人と争うことはなくなる。が、それは学習の機会の喪失と、誌面の活気のなさに結びつきかねない。最近のミニメディアが元気がないと言われるのは意外にこんなところに原因があるのかもしれない*12


■知識やノウハウも一つの道具である

少々、お説教みたいになってしまったかもしれないけど、こういったことはメディアという強力な道具を使う上では、絶対に無視できない知識でありルールなのだ。それは鋸や包丁を安全に使うための知識と同じだ。

メディアを作るためにも、そしてそれを道具として安全に使うためにも知識やノウハウが必要になる。この本にはペーパーメディアを作るための知識やノウハウが詰め込まれている。言ってみればこの本はペーパーメディアを作るための道具、つまり「道具を作るための道具」、工作機械みたいなものです。だからこの本を読んで、メディアの作り方を覚えただけでは何の役にも立たない。それは「僕は包丁の使い方を知っている」ということにすぎないのだから。包丁の使い方を知るのは料理をするための手段にすぎないわけで、それが目的ではないのと同じように、この本は、どんな小さなものでもいいから、実際に自分でメディアを作ってみて、はじめて活きてくる。

ペーパーメディアはメディアのAでありZです。作る過程を楽しむこともできるし、物事が終わった解放感や、完成の喜びを味わうこともできる。その上、できあがったペーパーはさまざまな人たちの間を流れて、あなたのメッセージを伝え、仲間を増やしていってくれる。ひとりでパーソナルメディアを作って通じあえる仲間を探すのに使ってもいいし、グループのメディアとしてミニメディアを作るのに使ってもいい。この本があなたの生活を豊かにする道具として機能してほしいと僕は思っています。では。


※ハガキ・メディア
 ハガキぐらいでは何も書けないって思われるかもしれないが、そんなことはない。500字程度の文字しか入らないが、言いたいことを選んで絞り込めばそこそこの文章が書ける。文章を書くのが苦手なら、いたずら描きプラス一言、という手もあるし写真という手もある。現代芸術の世界にも「メールアート」というジャンルがあるくらいだ。
 デザイン用品店や画材屋さんに行けば、美しい紙の目を活かしたハガキ、パステルカラーのハガキなどいろいろある。少々高いが官製ハガキよりもずっときれいで「何か作ってみたい」という気にさせてくれる。思い切って何百枚も買い込んでしまえば、出さざるをえなくなるという効果もあるかもしれない。また、情報に主眼を置いてなるべく低価格で頻繁に出したいのであれば官製ハガキ。なんとなく再生紙っぽい紙質もナウいといえなくもない。ワープロで打ち出したものを縮小コピーして、文字だけでビッチリ埋めるとそれはそれなりに味が出る。


※ふうしょ・メディア
 A4のコピー用紙にレイアウトしてワープロを打ち出し、両面コピーしたものである。ご覧のように「折られて封筒に入れられる」ことを前提としてデザインされている。1枚の紙がデザイン次第でこれだけ「おしゃれ」に見えるという、とてもいい例だ。
 おしゃれなのは体裁だけにとどまらない。通常の封書で送られてくるのだが、そこにはしばしば別のメディアが同封されてくる。もちろん、お互いに知合い同士らしく、内容的にも関連はあるのだが、文体もレイアウトもまったく違う。以前ならおそらく「それなら二人でミニコミを」になるはずなのが、別々に作って封筒というパッケージだけを共有しているわけだ。これなら編集方針をめぐって対立することもない。お互いの違いは違いとしてそのまま認めて共存しようということなのかもしれない。「われわれではない、私と私」という感覚が伝わってきて、なかなか新鮮である。

*1:これはまだ「おもしろいものを探す」という自主性があるからいいのだが、「自分は何か重要な情報を見逃しているんじゃないか」という受け身の心理状況になると泥沼にはまる。英語ではInformation Anxiety(情報不安症)と呼ばれているらしいが、この世界を流通するすべての情報にチェックを入れるわけにはいかないんだし、最終的には、諦めるかごく狭い範囲に的を絞る、という対応をせざるをえなくなる。世間では「おたく」と呼ばれているけど、ある面では健全な自己防御反応じゃないかとも思う。

*2:ここでパソコン通信の説明をしてもしかたがないので適当に。「アップロード」とは、正しくは自分のパソコンの記憶装置にあるファイル(データ、プログラムを問わず)をホストコンピュータの記憶装置にコピーすることを指し、「ダウンロード」はホストコンピュータの記憶装置に保存されているファイルを自分のパソコンの記憶装置にコピーすることを指す。

*3:ここでの「メディア」という言葉は具体的にマスメディアとかミニメディアを意味しているのではなく「われわれの社会がもっている情報の流通経路」というような意味だ。だから、仮にメディアを屋内配線にたとえるなら、僕は「漏電」のようなものかもしれない。変な比喩でわかりにくいけど、僕という人間そのものが「変でわかりにくい」のだから、この比喩は正しいことになる?

*4:こうなると「ライブ演奏とはレーザーカラオケの生演奏版である」的な事態になる。聴衆は生演奏と録音された演奏の関係を逆転させてしまっているのだ。「今日の演奏は良かった。CDとおんなじ音だったから」って。そのうち、聴衆の選んだ曲番号と演奏順をリアルタイムで集計して、もっとも多数を占めた曲目と演奏順でコンサートが進行するということになるかもしれない。もちろん演奏は録音になるだろう。

*5:マスメディアの任務は「新しい情報を読者に提供すること」である。読者の「新しい情報を求める」というニーズに応える、というのがお題目として唱えられる→そしてこういったマスメディアの姿勢は「新しいものを追いかけるのは正しい」という無言のメッセージとなって読者に伝わる→そしてさらに読者は新しいものを追う、という回路=マスメディアの送り手と受け手の間の無限円環回路ができあがるのである。僕はようするにこの回路から落ちこぼれてしまっただけなのだ。

*6:この「電子的にシミュレートされた雑誌」が何をしようとしているのか、まだ試行錯誤の最中で結論は出ていない。現在のメディアの「無限円環回路」をどこかで断ち切ること、あるいはそれを可能にするための方策を考えることが目的になるはずなのだ。たぶん「新しい」ということの意味を探ることがキーとなるはずなのだけど。

*7:これもパソコン通信用語である。チャットというのはお互いにキーボードから文字を入力してそれを相手に送りあうことで交わす「文字による疑似会話」のこと。オフラインパーティっていうのは、実際に顔を合わせること。ROMというのはリードオンリーメンバーの略で、他人の書いたものを読むだけで黙っている(何も書かない)人のことだ。

*8:メディアに載ったメッセージはある意味で書いた人間の分身だ。それは紙の上の文字として、あるいはデジタルなデータとして世界に拡散していく。それを読むということは書いた人間の分身と出会う、ということになる。読み手は書き手とそこで出会う。しかし書き手は読み手とまだ出会っていない。メディアは奇妙なかたちの出会いを作り出す。

*9:強力な道具はというのは、ほとんどの場合において、ちょうどその分だけ危険な道具でもある。強力な道具を使いこなすためには、使う人間にも力がいる。道具よりも非力であればその道具に振り回されることになる。結果として相手も傷つけるし自分も傷つく。でも、だからといって僕らは道具を使うことをやめることはできない。人間というのは道具を使うことで進化してきた生物だからだ。

*10:といいつつ、僕は編集者に指示されてこの原稿をもう何度も書き直した。つまり編集者は書き手(情報の発信者)にとっては産婆役であり、読者(受信者)に対しては保護者の役割を果たしていると言える。もし編集者がいなければ、メディアの世界は「野放しの乱暴な発言者」同士がお互いを傷つけあう修羅場と化すかもしれない。実際に、編集者の存在しないパソコン通信の電子掲示板では、毎日のようにそんなことが起きている。

*11:パーソナルな双方向メディアが普及するためには、郵便のような「受取拒否システム」が確立される必要があるだろう。電話機の「いたずら電話の撃退機能」のようなものだ。

*12:人と会っているとき、その場を支配するのは言葉や論理ではなく、お互いがお互いに対して発する気持ちのようなものだ。それは言葉や論理によって生まれるわけではない。むしろ、そういったかたちのないエネルギーこそが言葉や論理に力を与える。それと同じことがミニメディアにも言える。お互いに顔が見えている状態で交わされるエネルギー(それは思い入れと呼んでもいい)が誌面に活気を与えるのだ。