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電子メディア時代を巡るパラグラフ

■読まれなかった新聞の山を前にして

僕は4年前から小さなBBSを運営している。で、実はとても困ったことがある。というのは、そこにせっせと書き込んでいるうちに断片的なパラグラフしか書けなくなっちゃったってこと。パソコン通信の画面ってどんどんスクロールするから、確実に相手に伝えようとすると、どうしても一つのフレーズが短くなり、当然のように凝ったレトリックなんか使わなくなる。文章はどんどん短く断片的に…ちょっと古い表現だけど「文章がデジタルになっちゃう」というわけ。

で、つらつら考えて、はたと思いあたったのは、「それはそれでいーじゃないか」ということなんだ。そういう書き方って、ようするにディスプレイ画面で読むときにもっともわかりやすいスタイルなんだから、うまくすれば「電子時代の口語的な文章表現」とならないとも限らないでしょ?

ただ問題なのは、それを印刷しなきゃいけないってことなんだよね。でも、「それなら読むときにもディスプレイで読んでもらえばいいじゃないか」って逆転の発想だってあるはずなんだ。かなり乱暴であるのは承知の上だけど。しかも、そんなことを考え始めると、紙っていうのは情報を伝えるメディアとしては結構欠点が多いということに気がついたりする。

事務所で新聞を二紙とっている。赤旗聖教新聞じゃなくて朝日と日経ですけど。で、そこそこ暇なときには一応なりとも目が通せるんだけど、忙しくなって来るとのんびり新聞を読むような心の余裕がなくなってしまう。すると読んでいない新聞が山のように積まれることになる。この「読まれなかった古新聞の山」というのはなかなか気分の悪いもので、森林資源の壮大な無駄…という気分になってくる。読まれるために作られたものを読まないで捨てるというのもやはり気分が悪い。

金払ったんだから読もうが読むまいが、そんなのは俺の勝手だ…なんていうふうには僕は思わない。それは言葉の正確な用法における「退廃」というやつなんであって、自分の手元に届くまでにどれぐらいの人の労働と時間とエネルギーが使われているかがわからなくなってるってことを暴露してるだけなんだから。偉そうにそんなことを言っているとイナカモンとか言われちゃう。

あの分厚い情報誌の類も勘弁して欲しいよね。たった1週間、ひどいとたった1日しか有効性のない情報のために大量の紙を消費しているわけで、本屋や駅の売店を見るたびにこれまた気が重くなってくる。だいたい、あの“森林資源”という言い方が諸悪の根源だと思うな。だって森林って資源なんかじゃないもん、もともと。地球上の生物にとっては重要な酸素の供給源、つまり人間でいえば肺にあたる機能を果たしているわけで、それを切り取ってるんだから、たこが自分の足を食べちゃうのよりもっと質が悪いんだ。ほんとは。

■パソコン雑誌から必要な記事を探す…

雑誌もそう。仕事がらパソコン関係の雑誌は毎月10誌近く買うけど、隅から隅まで目を通すだけの時間なんかとてもない。パラパラめくってだいたい何が書いてあるかだけ見ておいて、いざ必要となった時に「たぶんあれに書いてあったはずだ」と見当をつけて探すんだけど一度で探し出せる場合の方が圧倒的に少ない。

そんならデータベースソフト買って入力すればいいじゃないか、っておっしゃるマニアの方もいらっしゃるはずだけど、私にはとてもそれだけの気力がない、というか非常に無駄なことだと思ってしまうのだ。だって、パソコン関係の雑誌や書籍の執筆者って99パーセント以上パソコンにワープロソフトの組み合わせで書いてるはずなんだよね、考えてみるまでもなく。

で、その文書ファイルを写植機で扱える形にデータ変換して、組版して印刷して製本して、トラックに乗せて本屋さんに並べて…とこれまた莫大なエネルギーを使って作ったものをですね、もう一度元の形に戻すためにパソコンで入力するなんて…じゃあそれまでの労働はいったい何だったのってことになるでしょ?

データのまんま流通させればいいのに…と思ってしまう。もちろん文芸作品もフロッピーディスクやCD-ROMにしなさい、とは言いませんが、せめてパソコン雑誌くらいは電子情報(メディアはフロッピーディスクでもICカードでも何でもいいですけど)で入手できるようにして欲しいと思っちゃう。フロッピーディスクの値段だって紙と変わらなくなってなってるんだしさ。

本って実は2種類あるんですよね。「楽しむための本」と「情報を得るための本」。文芸書や画集、写真集なんてのは前者、いわゆる情報誌やメッセージを伝えるためのものが後者。前者ならやっぱり装丁や紙の手触りやインクの臭いや、そんなものまでも含めて「本」だから、それを「データとしてはおんなじ」と言われてもやっぱり抵抗あるよね。

でも後者なら別に隅から隅まで読む必要もないわけだし、むしろできるだけ簡単に必要なものだけが引き出せる、ある種のデータベース的な作りになっているほうがいいと思いません? それなら紙より電子情報プラス検索ソフトの方がずっと目的にあっているはず。いままでは紙しかなかったからしかたなく紙の上に情報を乗せていただけで、紙よりももっとふさわしいメディアがあるなら、そっちに乗せた方が合理的だと思うけど違うかなぁ?

それに最近はあっと言う間に絶版になっちゃう本が多い。見たときに買わないと「いつ絶版になるかもしれない」と、夜もおちおち眠れない…というのは言い過ぎですが。でもあれもしょうがないといえばしょうがない。だってミニコミじゃないから50部、100部だけ印刷するって訳にはいかない。最低でも1000部ぐらい刷らないと1部あたりのコストがかかってしょうがないし、かといってあらかじめ印刷すれば、しまっておくための倉庫代がかかるんだから。

でもフロッピーディスクならプレスするわけじゃないから1部コピーするのも1000部コピーするのも変わらないし、倉庫だって要らないでしょう?

DTPの本当の意味は?

単純にデータベースからデータを引き出すだけなら、今のディスプレイでも十分なんだけど、その先「読む」というところになると今のディスプレイの大きさと解像度ではかなり難しいということはあるよね。じっくり読むという気にはなれないもの。少なくとも今のDTPに使われるような大きさ、あるいは解像度、つまりA4の見開きが一度に見られるぐらいのディスプレイが欲しいな。

以前に知人とDTPについて話をしていたことがあって、彼が言うには「DTPってまずいんじゃないか」っていうことなんだ。せっかくコンピュータを使っているのにどうしてそれをわざわざ紙に出力するのかって。どうしてそのままの形で流通させないんだろうって言うわけ。

それを聞いて僕はそうか、って思ったんだ。それまでDTPっていうのがどうしても腑に落ちなくて気分が悪かったんだけど、その一言を聞いて実にすっきりしてしまった。つまりあれは来るべき電子メディア時代のための予備技術なんだなって。情報を送り出す人間はDTPソフト上で情報を作り、読む側もまったく同じものをディスプレイを通して読むようになるんだよ、近いうちに。

うん、たぶん、時代はそういうふうになっていくんだと思う。きっと。

MAC LIFE 掲載原稿]