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 あるメールへの返事

長いぞ(笑)全部読んでね。
まずは感想/疑問点

●村以外に生活の場がなければ村から出ることは不可能でしょ?

●資本主義が労働力を必要としたから<都市のようなもの>を作ったんじゃない? でそれを企業共同体に囲い込んだんでしょう。

●だから旧来の意味における<共同体>は都市において、まだ成立していない。あるのは<企業共同体>……日本特有かもしんないけど。で、共同体/都市の成立過程というのは西欧と日本では違うし、ロシアでもまったく別でしょう? ここでは<日本>に限定した方がいいと思うけどなぁ。話がややこしくなるし、説得力も希薄になると思うけど。

●だから都市には共同体のルールはない。あるのは<会社共同体>のルールだ。資本主義のルールね。人間のルールじゃない。もっと簡単に言えば「すべてを商品に!」というスローガンでしょ。最近では。

●都市は不自由じゃない。逆です。まさしく自由なの。でみんなそれを恐がっている。だからみんな共同体が欲しい。欲しいから大企業へ就職し、宗教に行く。ネットもそう。仲間が欲しいんだよ。あれは。だからそこに厳然とした<排除の論理>を持ち込むんです。共同体が欲しいってのは、イコール<内>を作りたいってことなんだよ。でも、<内>つまり共同体というのは<外>がなければ成立しないでしょ?<外>を作り出すためには<排除の論理>がどうしても必要なの。

●人間ってそんなに強くない。村から自発的に出たんじゃないんだもん。最初っから。次男三男で喰いっぱぐれるから、都会に出てきたんじゃない? 村にいられないから都会に出て来る構造ってそんなに変わってないよ。今でも。少なくとも「村の掟に限界を感じて」都会に出て来るやつはいないでしょ。都会に幻想をもって出て来るやつはいっぱいいるけどさ。

●「メディア」って基本的に「都会幻想」をばらまく装置だったと思う。あるいは「都市幻想」(……私の理論で言うと「田舎>都会>都市」ですから(笑))を振りまく装置ね。都会に住んでいるやつら(私も含めてですよ)は<さらなる都会としての都市>を夢みているというわけです。

●メディアってのは共同体を崩壊させた張本人です(笑)。日本で言うとどうなるのかはっきりわかんないけど。おそらく明治維新以降だろうなぁ。農家の次男が仕方なく都会に出て来る。とそいつが都会の雰囲気を身につけて村に帰る……その人間がメディアでしょ。

●で、次第にマスメディアが出てきて、都会を村に直接持ち込むようになる。で、村落共同体が壊れ、TVが家族共同体を崩壊させ……てなぐあいにどんどん共同体を崩壊させて、人間を孤立させていくのね。でもそれは決して「個人の成立」とイコールではないでしょ。まぁ「個人」をどう定義するかにもよるんだけどさ。日本に本当の意味での「個人」と呼べる人間がどのくらいいるのか、僕には非常に疑問ですけど。もしほんとうに「個人」が成立してたら、こんな風にはならない、と思うけどなぁ。

●僕の目には、しかたなく、あるいはメディアに騙されて都会に出てきたものの、精神はまだ村落共同体のままのような気がしますけど。かっこは都会風になったけど、心は<制度>を懐かしがっていると思うよ。制度の外へは出てこないやつの方が圧倒的に多いもん。だから、それは結局いまでも続いているんだよね。共同体と都市の綱引きが、個人のレベルでも社会のレベルでもさ。

●だから、都会から都市へ逃亡するタイプもいれば、都会の中に村を作りだしちゃうやつもいるんだよ。

●こどもがメディアに対して<畏敬の念>をもっているってのは、どう考えても無理なんじゃないかなぁ。かといって親に畏敬の念はもってませんよね。あえて言うならメディアではなく、メディアに登場する<タレント>じゃないでしょうか? アーティストとか評論家とか、そういう人達。彼らは虚像としての<都市の住人>を体現してるわけだから。もちろん、古き良き共同体を体現しているタレントもたくさんいますけどね。

●メディアそのものはどうでも良くなってると思うな。というか全然機能してないのみんな知ってると思う。でなければ、子供がクチコミでフォークロア現象作り出したりしないよ。きっと。あれは内容はどうでもいいの。<伝わる実感>が欲しいんだと思うな。つまり子供たちにとってはマスメディアは何かを伝えるもんじゃなくてタレントに会うための手段、自分たちが使うメディアは別にある、そういう構造じゃないかなぁ。電話とかさ。

●でね、僕らが先輩から伝えられた情報がなぜ拡散していったかというとですね。それは僕らの怠慢なの(笑)。それをメディアのせいにしてはいけない。だいたい団塊の世代がネグったんだよ。こないだの麻薬論争がいい例だと思う。僕の上の世代はさんざんぱらやりちらしたくせして、それが何だったのか、全然下の人間に伝えてない。まぁあれは体験するものといえばそれまでだけど、あれが結局ほとんど何も生み出さなかったことは伝えるべきでしょう? いくらダサイとかクサイとか言われたって。あるいは、それをクサクないように言うのが、評論家の仕事だったんじゃないでしょうか? それしないで下の人間がやったからって馬鹿扱いできないよな。

私の意見

●まず村から都会への人の流れは自発的なものだったのかどうかという検証がいるでしょ? で、一般的には「自発的ではない」という理解がされているから。それをひっくり返すにはそれだけの論拠が必要だと思います。それを作っておかないと、先で詰まる。

●村>都会>都市。という流れはある。が、どうしてそうなのか、は僕の中でも答が見えてない。流れを作り出している根本的な力が何なのかはわからない。もちろん非都会としての<都市>のイメージもまだ明確な像を結んではいない。WENETの中にはあちこちにその芽が出だしているとは思うけど、抵抗も大きいし(笑)。

●環境問題というのは想像以上に大きな流れになると思う。60年安保70年安保の比ではない。地球というとりあえずは最も大きな共同体と個人が直結している、ということが見えて来ているからだ。これをクリアできなければ<都市>は成立しないと思う。

●<都市>が成立するとすれば、おそらく今の企業のスタイルは通用しなくなるし、男と女の問題もまったく様変わりするでしょう。想像もつきませんが。それまで人間がもつかどうか、非常に微妙になってきてると思う。完璧に社会システムを変えないと駄目なんだ、ということにみんな、いったいいつ気が付くんだろう……と他人事のように思っている私は悪いヤツです(笑)。

●で、これは上からの<革命>じゃできないんだよね。党派は完全に終わっちゃってるし。あれも一種の共同体だからね。つまり、個人がどのくらい個人として立ち現れることが可能かどうか=共同体つまりは制度をどこまで壊せるか、に掛かっているんです。実は。でも、それを<個人主義>にしちゃうと、また足元をすくわれる(笑)。横につながんなくなっちゃうから。

●そいで「ネットワーク」ってコンセプトになるんだけどね。ついでに書いておきますが、男の中に女と男がいて、女の中にも男と女がいて、これは何か? っていうとネットワークなの。

●昔は「亭主関白」と「山の神」で家父長性の中でバランスが取れてたんだよね。つまり“名目上の権力者”と“実質上の権力者”という役割分担で、ちゃんと中心が2つあって機能していたんですよ。あるいはそこにおじいちゃん、おばあちゃん、あるいは叔父さんとか叔母さんとか……つまり第3者もいて家庭が複数の中心をもつネットワークとして機能していたんだ。

●ところが、共同体からはずれ、制度としての家父長性も壊れて、しかも核家族になるでしょう? 残ったのは「山の神」だけ。中心が1個になっちゃったら、もはやネットワークじゃない。

●すると、亭主もおじいちゃんおばあちゃんも結局ゴミにしかならない。それらを支えてたもんがなくなったら機能できないんだもん。

●これできちんと「個人」になってれば、つまりどこにも帰属せずにいられるようになっていれば、もう一度そこからオリジナルなネットワークのスタイルを構築していきましょう……ってことになるんだけどね、でもそうじゃないでしょう?

●そいでしょうがないからみんなで学歴=企業共同体に行くか、さもなくば宗教共同体に行くしかなくなる。

●でね、個人として成立するってことの最初の関門は「自分を知る」ってことなんですよ。だけどもちろん「自分だけを知る」ことは不可能なんで、自分がわかると自動的に他人のこともわかるようになる。で、当然、僕とあなたはまるっきり違うってことになるの。

●それは「僕たちおんなじだよねー」なんて、生易しい世界じゃないもんね。関係は所与のもんじゃないってことだもん。一つ一つ自分達で作っていくもんなんだもん。その上AさんとBさんの関係の方程式はBさんとCさんの間には使えない。全部がオリジナルな関係だもん。マニュアルなんかないよー、の世界ですからね。

●そのとってもシンドイ作業を僕はここでやろうとしてたんだよね。実は。だってそれしないと生き残れないもん。もう。でこれって面と向かってはとうてい出来ないよね。人間には限度っつうもんがあるから。

●でも、私は10年、サシでこれやってましたがね(笑)。病気にもなりますよ。まったく。ははは。つまりさ、「僕らどうしてこんなに違ってるんだろ」ってのをまず認識して、非常に淋しくならないといけないの。で、その次に「じゃあ、違っているのはしょうがないから、それで一緒に生きていくにはどうしたらいいんだろうね」って話になるわけ。そうすっと、制度にがんじがらめになっている自分っつうもんが見えて来る。

●「制度を認める限り、いい関係が作れない」って発見に至るんです。で、どうするかって岐路に立つことになる。いい関係を取って制度の庇護から抜けでて自分でリスクを背負うか、あるいは関係は良くなくても制度の庇護の元に留まってリスクを回避するかっていう選択ね。

●結局「制度」は「個人」が自らリスクを侵して一人づつ抜け出していかない限り壊れないんだよ。それは毎日のすごく小さな積み重ねしかないの。口で「制度なんかナンセンス」って言ったって絶対壊れないから。そんなのは70年でわかってるはずなんだけどなぁ。

●何ども言いますが、もはやトップダウンなし。です。制度の改革じゃだめなんだもの。全部ボトムアップ。細かなことを拾って制度を中から空洞化させていくしかない。これって、実は自民党のやり方なんだけどね(笑)。

●あの、まともに国民投票やったら絶対変えられなかった憲法9条を、のらりくらりと見事に骨抜きにしちゃったでしょ? おそろしく非効率的だったけど結果的にそれがいちばん近道だった。そのやり方を真似させていただこうという訳ですよ。

●つまり党派はだめだけど、派閥はいいの。違うか(笑)。

●でね、そうすると、メディアの役割も変えて行かないとだめです。今のメディアはファッションだのトレンドだのという、いわば「ソフトな制度」をトップダウンでもってきちゃうもんだからね。

●僕らに必要なのは「細かなことをどうやって拾ってどう潰すか」っていう、そういう情報をお互いに流し合うためのメディアなんです。そういう意味ではネットはツールでもあるわけ。

はぁ、くたびれた(笑)。