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情報の所有から情報の流通へ

我々が所有していると思っているのは、情報ではなく、その情報を乗せているメディアに過ぎない。書物でいえば紙でありインクである。ところが、電子的なテクノロジーはその状況を変更しつつある。たとえば、ゼロックスコピーの出現はその情報とメディアとの間にかなりはっきりとした亀裂を作りだした。書物を複製(生産/流通)するためにはかなりの費用がかかる。我々が個人でそれをすることはおよそ不可能だ。しかしコピーは書物そのものを複製するのではなく、書物の表面の情報だけをはぎ取って複製するテクノロジーであり、我々は簡単に必要とする情報を部分的に取り出すことができる。つまり個人のレベルで情報とメディアを分離し、情報だけを流通させることができる。
コンピュータのデータであれば、その傾向はさらに進む。コピーではまだ一枚一〇円、つまり、五〇〇頁の単行本をコピーするには五〇〇〇円と数時間の時間と労力が必要、つまり原理的には可能でも経済的には困難という制約を持つ。だが、デジタルのデータは五〇〇頁の情報量をわずか二〜三分で、しかもたった一〇〇円のフロッピーディスクにコピーしてしまうことができる。そしてどれだけコピーを繰り返しても読めなくなることはない。デジタルデータには、もともとオリジナルとコピーの区別がないからだ。
コンピュータの取り扱うデータは常に「仮の姿」であり、ある意味で宙に浮いている。磁気信号に姿を変えてフロッピーディスクに記録されることもあれば、アナログ信号に姿を変えて、電話回線を通じて遠隔地に一瞬で送られることもある。たとえば、一台のコンピュータに電話回線と大容量の磁気記録装置をつなぎ、ここに電話回線を経由して自由にデータ(文章やプログラムなど)を記録したり引き出したり出来るようにしておく。いわゆるコンピュータネットワークと呼ばれるシステムで、パソコン通信と呼ばれるものも原理としてはまったく同じであるが、こういう装置をいったん作ってしまうと、必要な人が必要な時にデータを引き出して自分のフロッピーディスクにコピーすることが可能になる。つまり情報提供者は複製手段を持つ必要も、そのためのコストを負担する必要もない。
つまり、コンピュータネットワークは情報をどこにも定着させずに、つまりもっとも自由に流通させることを前提としたメディア装置なのであり、冒頭に述べたPDSはこのようなシステムの特性なしには生まれ得ない。むしろ積極的に、情報がメディアから自由になることをそのまま認めようとするのである。それは所有を前提とし、情報を囲い込もうとする資本の論理と真っ向から対立し、また我々自身の「情報の所有」という概念そのものを突き崩しつつある。
そして、ウィルスはその概念をさらに押し進めたものだ。PDSなら情報の要不要、つまり情報を流すか閉じこめるかを人間が判断できるが、ウィルスはその判断すら無効にし、コンピュータネットワークの中を自ら流れ、増殖していってしまう。所有どころか制御さえ困難なのがウィルスであり、それは情報というものの特質だけを取りだしたもの=純粋情報のようにも見える。それは子ども達の間を流通する都市のフォークロアにも似ている。そこには効率の概念もなければ、目的すらない。ただ情報が流れることを確認するためだけに、彼らは奇妙な噂話を、そしてウィルスを解き放つ。まるでマスメディアの機能不全を嘲笑しようとするかのように。