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書物(紙メディア)のいくつかの欠陥

校正という言葉をかなり恣意的に使ったことをご容赦願いたい。事態を把握しやすくするために濡れ衣を着せていることはわかっているが、それ以外の言葉を思いつけなかったのだ。が、ともかく「校正の困難な電気信号としてのテキスト」、それはワードプロセッサというソフトウェアの欠陥でも、ディスプレイのサイズというハードウェアの欠陥でもない。欠陥に見えるのは我々があまりに長い間「紙とインク」しか知らなかったからに過ぎず、むしろ「紙とインク」というメディアにこそ欠陥があったと言うべきなのである。校正作業とはその欠陥を補うためのものであると同時に、テキスト(情報)を紙とインク(メディア)に縛り付けることにも寄与してきたのだ。そして、それ故に我々の「情報を所有できる」という錯覚をも生みだしたのである。紙メディアにおいて、情報、メディア(複製手段)は分離不能のものとして存在してきた。故に我々は情報とそれを搬送するためのメディアを混同したのだ。
たとえば一冊の書物を考えてみよう。ある書物を「知っている/読んだ」ということが、書物に書かれている情報を所有したことになるだろうか、その意味を読み取れなくても…明らかに「知っている/読んだ」は「意味を読みとっている」ことを意味しないし、また所有していることにもならない。「意味を読み取った」人間のみがそれを所有していると言えるはずだ。
が、しかし、その意味も一定ではない。同じ書物を同じ人間が読んでも、一年前と今ではまず間違いなく異なった意味を読みとるし、極端な場合、間を空けずに二度目に読むときでさえ別の意味を読みとってしまう。なぜならある書物を読む、意味を読みとった時、たとえそれがどのようなものであっても、我々は“改変”される。読むことは体験だから。そして二度目に読むとき、同じ人間が読むことにはならない。一度目とは違う人間が読んでいるのだから。
我々は原理的に同じ書物から、無限の意味を読みとる可能性を持っていることになる。つまり、書物に書かれているすべての情報を所有する(読みとる)ことは不可能なのだ。一冊の書物を海にたとえるなら、我々が読みとった意味など両手ですくった海水ほどでしかなく、そしてそれはあっという間に指のあいだから流れ出てしまう。