N/A

「書く」、そして「読む」。

「書く」という作業は、思考というかなりあやふやなものを文字というメディアに乗せる作業である。そして、それは決して一方向的な作業ではない。我々は常に「読み」そして「書く」という、双方向の作業の中にいる。我々は自己の中に潜む他者を想定し、彼(ら)に向けて書く。「書く」とは完結しない自己の内部交通であり、「読む」もまた同じく読み手の中での内部交通である。読み手が書かれたものの中に自己を発見することが可能であるなら、書き手の自己の中に他者がいないと、どうして断言できるだろう。自己はおそらく完結していない。様々な他者(の部分)が微妙に重なりあって、とりあえず自己としてあるように見えているだけだ。
文章を書き始めたころ、書けば書くほど「自分はこう思っていたはずだ」と思っているところからずれていくことに悩まされた。いまはそれはない、が、それが自分の中の他者の声を素直に聞く訓練が出来てきた結果なのか、逆に彼の声を聞こえないように耳栓をした結果なのか、実はわからない。
ともかく、我々が切り捨てるのは、おそらく自分自身で理解できない部分である。しかし、それは書かれなければならなかったことかもしれない。自分では理解できない「何か」を“誰か”は受取り理解するかもしれない。そしてその“誰か”はそれを私に理解できる形で書くことが出来たかもしれない。もちろんそういった“曖昧で不完全なテキスト”は誤解される可能性も大きい。テキストというよりもむしろ限りなく会話に近いものになるだろうから、同じような議論が何度でも繰り返され、誤解を解くために、また誤解を生むだろう。それは“効率的”どころかむしろ“非生産的な代物”だ。しかし、コミュニケーションとは元々そういうものではなかったのだろうか。効率的に情報がA点からB点に間違いなく移動することがコミュニケーション、半歩譲って、コミュニケーションのすべてだったのだろうか?いったい誰がここにまで効率的だの、非生産的といった概念を持ち込んだのだろう。コミュニケーションとは、まず遊戯ではなかったのか?その中で我々は他者と出会う可能性を期待していたのではなかったのか?効率的なコミュニケーションとは「用件だけの電話」のようなものだ。用件は伝わるが人間は伝わらない。