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「電子出版」と『愛のゆくえ』のゆくえについて

『愛のゆくえ』というのは、リチャード・ブローティガンというアメリカの作家の小説のタイトルである。10年以上前に新潮文庫から出ていた。変わった図書館が出て来る話で、それを思いだしもう一度読もうと思って部屋中を探すのだが、それ以来の数度の引越しで、どこかへ紛れ込んだのか、それとも古本屋に売ってしまったのか、いくら探しても見つからない。
文庫本だから、また買えばいいや……と軽い気持ちで本屋さんへ行ったのだが、もうどこへ行っても置いていない、どころか文庫日録にもない。
僕は今回の原稿を『愛のゆくえ』に出て来る図書館で始めようと思っていたのだ。「司書の主人公が勤めている図書館はいっぷう変わった図書館で、1年に何冊か持ち込まれる、普通の人が作った世界中にたった1冊しかない本を預かるのが彼の仕事、そして、この図書館へは1年に数人しか本を借りにこない、という世の中からすっかり忘れ去られたような図書館で、……」といったぐあいに。
このおかしな図書館に関するイメージはかなり鮮明に残っているのだが、肝心のストーリーや、そこにどんな奇妙な内容の本が置かれていたかといったディテールをすっかり忘れてしまった。説明のためにもう一度読もうと思ったのが、今回のテーマの発端である。
でも重要なのは、実はストーリーではなく、この奇妙な図書館、正しくは「図書館とそこに置かれた本の関係」が本というものが持っている「閉ざされた心地よい静けさ」を、感覚的にとてもうまく表現していたことなのだ(そこに置かれた本がいかに奇妙なものだったかが説明できるとわかりやすいのだけど)。
大通りに面した大きな明るい本屋さんには騒がしいベストセラーがよく似合う。でも本当に心地よい本は、そういうところには住めない。彼らが住んでいるのは、駅前から続く商店がまばらになりはじめる、住宅地とも商店街ともつかない境界線上、そばには、小さなしかし昔のままの雑木林が残っていてその本屋さんの窓からは、例えば今ごろの季節には少し恐いぐらいの木々の緑しか見えない……そういう本屋さんなのである。で、僕はそういう本屋さんの店長になりたかった。それは内向的な時代の終わりの頃の話だ。
その後アルバイトで雑誌や書籍の仕事をするようになって、本屋さんよりも出版社をやりたいと思うようになった。理由は、僕の好きな「閉ざされた心地よい静けさ」を持った本や雑誌がどんどん少なくなっていったからだ。誰も作らないなら自分で作ろう……これは少し外向的になり始めた20代の中頃。
しかし、仕事を続けるうちに、それが現実的にはとても困難であることが見えてくる。本を作るには実に多くの人たちの労力と時間とお金が必要になるし、大手出版活動と広告の陰では、小さな出版社の作った本は人の目に触れさせることすら容易ではない。それが30代の初め。
コンピュータが少しずつ、あるいは急速に実用品として目の前に現れだしたのはこの頃だ。データの形式が事実上統一され、そのデータは写植屋さんの手を煩わさずに版下になるようになり、そして大容量の記憶装置が個人でも手の届くところまで降りてきて、遂にはネットワークまでもが個人レベルで始められるようになった。
ワープロは悪筆の人々に歓迎され、その一方和文タイプ屋さんや写植屋さんは失業の恐怖にさらされ、爆発的に増えた草の根BBSはNTTを喜ばせ……でも僕の目に見えたのは、今までの出版社や本屋さんとはまったく違うスタイルを持った「電子出版社」あるいは「電子本屋さん」の可能性だった。