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 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命

「いやー、もー、ゼンゼン何にも書く気がしない。だから書かない」と書いてるのは矛盾だと思われるかもしれないが、これは「書いている」のではなく「喋ってる」んだからいいのだ。何が違うかというと「書いたもの」は残るし、「喋ったもの」は消える。だから似ているようでいてまったく別物。
しかし、世の中には「書くように喋る人」もいれば「喋るように書く人」もいる。つまり(消えてしまった)喋ったことに対しても書かれたものと同じように責任を持とうとする人と、書かれたものとして記録に残っているにも関わらず平気で自分の言葉を否定する(ごまかす)人がいるということだ。で、どうやら世の中の趨勢は「喋るように書く」ことらしい。それはつまり「言葉が失われていくこと=言葉を殺すこと」にほぼ等しい。説明責任どころの話ではない。こういう状態で言葉を扱うのはなんだかネクロっぽくてイヤだ。

そんなわけなので「日本語の起源(の一部)は原ポリネシア語である」なんてのを見ると、なんだかウキウキしてきたりするのね。日本人がすごい混血民族だというのは、何をどう調べてもそうなる。ということは言葉も混血だってことで、現在の日本語に限らず大昔の日本語もやっぱり混血語で、世界中の言葉の断片が紛れ込んでてもおかしくはない。たとえば、日本の古代テクストである万葉集古事記には意味不明の言葉がたくさんある。神様の名前なんか「これのどこが日本語なんだ」と思うぐらいワケワカメだ。
たとえば「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」なんて名前の神様が出てくる。「あまつひこ/ひこなぎさたけ/うがやふきあえず」と読むらしいけど、前半はまだそれらしいとして後半は完全になんだかわからん。ところが、これを原ポリネシア語の音で読むと以下のようになるんだと。

「アマ・ツ・ヒ・コ/ヒコ・ナ・(ン)ギタ・タケ/ウ(ン)ガ・イア・フキ・アエ・ツ」
AMA-TU-HI-KO-HIKO-NA-NGITA-TAKE-UNGA-IA-HUKI-AE-TU

ama=outrigger of a canoe;
tu=stand,settle;
hi=raise,rise;
ko=adressing to girls and males;
hiko=move at random or erregularly;
na=satisfied,belonging to;
ngita=fast,firm;
take=stump,chief;
unga=send;
ia=indeed,current;
huki=transfix,glance suddenly;
ae=in answer to a negative question it affirms the negative and must be rendered by no;
tu=be wound)

対馬の地に・住む・身分の高い・男子(の系統)で/あちこち遍歴した・しっかりした・信頼される氏族の長で/(見るなの禁忌を犯されて産屋を)覗かれて・傷ついた・(母が)残した(子)」
出典:http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/koten05.htm

僕は言語学のことはよく知らないので、どのくらい妥当性があるのかよくわからない。ほんとかもしれないしほんとじゃないかもしれない。でも、1万年以上昔に海流に乗って南の島からたどり着いた人たちが僕らの祖先だったというのは悪くないなぁと思うし、ああ、それで僕は南の島やハワイアンが好きなのかぁ、と根拠のない納得ができるというのもなかなかにグッドではないかと思っちゃうのであります。いいでしょ?