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知識は書物ではなく現実からやってくる

あるいは「書物から得た知識は現実によって裏打ちされる」、あるいは「経験がなければ書物から知識を獲得することはできない」、逆に言うと「書物に書かれていることはそのまま現実に当てはめることはできない」……あるいは「現実の経済は経済理論によって動いているわけではない」、あるいは「経営理論通りに経営しようとすれば必ず失敗する」または「発想法には発想の秘密は書かれていない」など。[松岡裕典
前回の「ドキュメントよりメモ」を読み直している最中、ぼんやりとそんなフレーズが頭の中を行ったり来たりしていた。僕にとってはドキュメントは理論であってメモは現実(に近いもの)だからだ。あるいは専門教育を受けず、理論を学ばずにいきなり雑誌のデザイン現場に入ったせいもあるかもしれない。
(出版における)いいデザインの定義はいくつもあるのだけど、一つあげれば「使われている原稿や画像がそれ単独であるときよりも良く見える」だ。これを組織に当てはめれば「個人でいるときよりもその集団に属しているときのほうが力が発揮できる」になる。
デザインでも組織でも「まず理論ありき」ではなくて「まず現実ありき」だ。現場のデザインには「べき論」や「理想論」は通用しない。厳然とした現実(要素)がまずあってそれをいかに組み合わせれば(レイアウトすれば)、全体としてのパフォーマンスが出るかを考える。理論はその後、結果として推測として事後的に組み立てられるだけだ(時として都合良く)。
よいデザインの誌面には相互の要素間に有機的な連携が生まれている。互いに引き立て合う関係というか、要素間に従属関係がないというか、従属的に見えるどんな小さな要素でも全体のために一定の効果をもたらしているし、逆にメインになっている大きな要素も小さな要素を活かすように配置されている。お互いに活かし合う関係を作れないと誌面は死んでしまう。おそらく組織も同じなのだと思う。
どうすればそうなるのか、と言われたら「現実を見るしかないでしょう」としか言えない。理論は一つしかないが、現実は無数にあってすべて異なる。その現実を見極めてどうするかを決めるしかないのであって、理論(知識)はごく一部しか有効性を持たない。それこそ「使えなくはない」レベルでしかなく、その理論を無理矢理振り回すと、往々にして現実を壊すことになる(どこかの国の経済政策に似てるが)。
デザインでいえば、個々の要素が語りかけることに耳を傾けることだし、組織にあてはめるなら個々の人間の能力と性向とその組織を取り巻く環境を見極めることだ。そして、それをうまくやるためにこそ、組織を作っている人間が自由にコミュニケーションできる(語り合える)ようにしておかなければならない。知識流通が組織を道具として使うことを担保している、とも言える(よい言い回しではないけれど)。
▼追記
という原稿をメンバー諸氏に見ていただいたところ、近藤さんからいくつか指摘をいただきました。ひとつは用語法について「理論と知識を一緒にして、その対比に「現実を見る」を置くのは違和感がある。現実を見るのが知識で、その現実を抽象化してモデル化して、操作できるようにしたのが理論ではないか。との指摘。もうひとつは、理論は一つしかないわけではない。特に経済理論には相互に矛盾する理論がたくさんある。ということ。ともにその通りだと思います。
「その通り」の指摘を受けたので書き直そうと思ったのですが、難しいのであきらめてしまいました。なぜかというと、もちろん筆力が足りないせいもありますが、「圧倒的な現実に比較すれば、人間の考えた理論や知識なんて一緒にできるぐらいちっぽけなものだ」という、僕の偏屈で乱暴な信念が書き直しを邪魔しているようです。
で、実はもう一つコメントがありました。それは「理論流通はけっこう簡単だけど、知識流通はかなり難しくて、それはモデルに関する知識ではなく、現実に対する知識を移転する必要があるからではないでしょうか。(原文ママ)」という指摘です。そうそう「現実に対する(関する)知識を移転するのが困難」という問題こそが僕らの主要な問題なんですよね(いまさらですが)。
(Thu, 29 Jan 2004)