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「PERSONAL DTP SYSTEMS」から「情報デザイン基礎講座」へ

ネットワークという新しい情報流通回路をどうデザインするのか、
全ての人に開かれたデータベースをどう構築するか…
情報生産、流通、管理、そしてソフトウェアに対する仕様書の提案、
あらゆることが「情報デザイン」の作業領域として開けてくるはずだ。

松岡裕典


■おわりに

先月まで、いわゆるソフトウェア評価をやってきた。といっても他誌のソフト評価のように、個別のソフトウェアに点数をつけるような評価ではなく、ソフトウェアのジャンル、例えば日本語ワードプロセッサDTPとして使えるのか、どこに問題があるのか、あるいは通信とDTPを組み合わせるとどうなるか、DTPから見るとどんなデータベースソフトがふさわしいのか? という、「現在のソフトウェアジャンルをDTPの観点から評価する」といった作業をしてきた…つもり。
だから、個別のソフトウェアとしては採り上げなかったものもある。例えば『−太郎』を採り上げて『P1.EXE』は採り上げていないとか…でもそれは大局的に見ればたいして違わないからであって特に他意はない。採り上げなかったソフトウェアのなかにも、素晴らしいものがたくさんあることは言うまでもない。
新しいソフトを使うのはそれなりにドキドキするものだけど、1000ペ−ジのマニュアルがついてくるようなソフトの全貌を紹介し、さらにそれがDTPにどう使えるかを4ページで書くというのは、かなりきびしい作業でもあった。
仕方なく一部の機能に限定して話を進めるしかなかったのが心残りであり、ソフトウェアを開発した人にも大変失礼なことをしてしまったかもしれない。この場を借りてお詫びします。ごめんなさい。
それはさておき、いわゆるワープロソフトに始まり、本格的なDTPソフト、通信とDTP、フルテキストデータベース、グラフィック系のDTP風ソフト、第2世代ワープロとしてのアイデアプロセッサ、そしてDTPに使えるグラフィックソフトと1年でほぼ採り上げるべきジャンルは終わってしまった。さて、どうしようか? と担当のN氏と喫茶店での雑談の結果、こんな感じで…ということになったのだが、その前に簡単に1年間をまとめてみると。

■ソフト評価ということについて

他人の作ったものに対して悪口をいうのは簡単だ。偉そうに見える(でもほんとは馬鹿みたいだ)。確かにそれが本当に悪質なもの、例えば昔のゲームソフトのように詐欺と言ってもかまわないぐらい酷いものなら、それはちゃんと言う必要があるだろう。でも最近のビジネスソフトには、そういうものはほとんどない。もちろん欠点のない製品なんてないけど、それを言い出せばきりがない。
それに、ある人にとっては“しょうもない”ソフトが、別の人にとっては素晴らしいソフトだったりするわけだから“どんな人がどんな時に使うのか?”という視点なしに「いいソフト悪いソフト」は決められない。だから、「こういう人にはいいけど、こういう人にはあまり勧めない」という言い方をしたり、「こちらからこういうふうに歩み寄れば、いいところがある」と言ったりした。「できちゃったものはしょうがない」からだ。その長所と欠点を見極めて、“どういう人がどういう時に使えばそのソフトが生きるか”を考えるようにしてきたつもり。それは経営者としてスタッフにどうやって仕事をしてもらうかを考えているから、ソフトウェアに対しても思わず同じアプローチをしてしまったということかもしれないけど。

■製品ができ上がる前にやったほうが健康的だ

「できちゃったものはしょうがない」なら、「できあがる前に言えばいい」ということになる。ソフトウェアができあがる前に、企画段階でこちら側からこういうふうに考えてほしい…という要望を出し、それを実現してもらえれば、後から悪口を育ってお互いに嫌な気分を味わわずに済む。「できちゃったものはしょうがない」などと変に悟らなくてもいいから、精神衛生上も大変よろしい。会社の経営で言えば求人の時に「こういう人に来て欲しい」と予め条件をつけることと同じだ。企業なんてのはシビアだしそういう蓄積があるからみんな無意識的にそういうフォーマット(やり方)を使うし、それが社会通念として了解されている。
ところがコンピュータのソフトウェアはまだ歴史が浅いからそういうものがない。人を採用してから「おまえはどうしてこんなこともできないんだ」と文句を付けるようなものだ。「できあがる前に言えばいい」と言っても「あの機能をつけろ、こっちはいらない」ということをしたいわけではない。それも悪くはないが、そうやってソフトに手を入れていくという方法論はどうにも納得できない。どっか変だ。どう使うか、何のためのソフトなのかが明確になっていれば、そんな方法論を採る理由はないはずだ。
例えばワードプロセッサにあんなにたくさんの罫線の種類が必要なのか? 新聞を作る訳ではないのだ。ユーザーの声の後ろ側が見えていない。ユーザーだってどうしていいのかよくわかっていないはずだ。そのよく訳のわかっていない要求をそのまま反映させていったら恐竜ソフト(『−太郎』のこと)になるのは当たり前だ。
「それは必要ない」と、きちんと言うのも物を作る人間の見識というものである。その点『新松』は偉い。尊敬に値する。ソフト自体の好き嫌いを別にすれば。

■結論

1年間いろんなソフトを使ってみて感じたのは、もっと大枠から見ての話が必要だなあということ。例えば、デザイナーとして、DTPソフトを考えれば…、あるいは編集者とデザイナーを連携するという前提で考えれば…といった具合いに考えて、日本語ワードプロセッサに本当に必要なものは何なのか、DTPソフトとはどうあるべきか、だとすれば、ユーザーとしてそれをどう使うのか、そういったことをきちんとさせることが必要な時期にきているのではないかということ。つまり個々の機能と言うよりはソフトウェアの位置づけや方向性を明確にする時期が来ているということである。
今までのような作業を繰り返していっても悪くはないのだが、“様々なジャンルのソフトがDTPにとってどう使えるか”の感触はだいたいつかんでもらえたと思うし、そうなれば、後は他のパソコン雑誌のソフト評価で“どのくらい使えるか”の見当をつけることはそんなに難しくないはず。だからそれはここらでおしまいにして、もうちょっと別のアングルから迫ってみようということである。
ともかく読んでくださった方、ほんとうにありがとうございました。と、唐突に“おしまい”です。

■企画書「情報デザイン基礎講座」

で、ここから「新連載」です。「情報デザイン」という言葉についてはこれからゆっくり考えて行くことにして、その中で何をしようとしているかについて、どうしてこんな言葉を思い付いたかという話から始めることにします。
僕は基本的には雑誌や広告のデザイナー。と同時に零細企業の経営者でもある、と同時にPR誌や雑誌の企画編集をしたり、こんなふうにコンピュータ関係の原稿を書いたりもする。
具体的にどういう生活になるかというと、午前中はAというPR誌の縞集者としてデザイナーの事務所にデザインの打ち合せに行き、午後はBという雑誌の寄稿者として編集者からの催促の電話を受け、夕方にはCという雑誌のデザイナーとして翌日締めのレイアウトをし、終わってから経営者としてお金の勘定をしたり…した後、夜中にBという雑誌の原稿を書くような生活(現実そのまま)だ。ひどいと、1台の98で原稿を書きながらもう1台の98で雑誌のレイアウトをしたり…ようするに人間OS/2である。
しかし、僕はミケランジェロダヴィンチのような天才ではないから、各々を専門にしている人に比べると細かいところでは当然、劣ってくる。複数の仕事全部にまんべんなく一流の仕事ができるほどこの業界も甘くはない。
だからと育っていい加減に仕事しているわけではない。むしろ専門家にならないが故に可能になる仕事のしかたをしているつもりである。
専門家になってしまうとどうしても自分の仕事を中心に考えるようになる。全体のバランスを考えた上で自分の仕事を調整することは困難だ。
ところがこっちは自分の仕事があってないようなものだから、どこにも属さないで、全体の仕事の流れをスムーズにするためにはどうしたらいいか、という発想で仕事ができるようになる。デザイナーでありながら「これはデザインを抑えないといけないなあ」とか、原稿を書きながら編集者として「これは原稿をなんとかしないと…」という具合いに平気で自分の仕事を調整してしまう。簡単なレイアウトなら「これこうやってこうすればできるから自分でやった方がいいよ」なんてことを言って、平気で自分の仕事を減らしてしまったりする。

■「情報デザイン」という言葉の発見

こんな仕事のしかたをしていると、著者とか編集者とかデザイナーとかいっても、結局同じことをやってるんじゃないか…ということがおぼろげに見えてくる。つまり一つの情報をどうやって読者(受け手)に正確に速くわかりやすく伝えるかという仕事、つまり「情報をデザインすること」をやっているということに気がつく。当たり前だといえば当たり前だけど、実はこれが結構そうでもない。
それは情報誌という特殊な分野で仕事をしていると実によくわかる。ごく普通の編集者と呼ばれる人は情報誌の編集をしたがらない。情報誌の編集には週刊誌や新聞のようにとれだけ対象に肉薄し、粘り強くデータを収拾するか、といったジャーナリスティックな素養は要求されないから。またライターの人にも、文学的な素養はまったくといっていいほど必要とされない。どうやって短い文章の中に書かなければならないことをわかりやすく収めるか、という能力が要求される。
つまり情報誌の編集者やライターに要求されるのは、莫大な情報をどう整理し、流れをつくり読者に提供するかという、いわば情報処理能力なのだ。また、デザイナーも同じように、見開き単位での美しさの前に1000ページという情報量をどうヴィジュアルに整理しまとめるかという、これも情報処理能力が要求される。

■すべてのメディアが“情報誌化”する!

情報誌というのは確かにいまのところ「特殊な分野」かもしれない。が、これからはむしろこちらの方が一般的な分野になるだろう。流通すべき情報量は増える一方だし、こちらから取材に行かなくても情報は様々な領域からどんどん出て来るようになる。
今はまだコンピュータネットワークはメディアになりえていないが、これが電話のように使える本当の意味での双方向メディアになる時代には、ある局面で、取材という言葉が死語になることだって考えられる。
むしろ、そういった様々な情報の流通チャンネルから流れ出てくる生の情報をさまざまに組合せ、突き合わせ、整理し構成することで記事を作って行くようになるだろう。
そしてこれは雑誌や書籍などのメディアに携わる人だけの話ではなくなるはずだ。ごく普通の人達が日常的に大量の情報にさらされる時代になれば、個人レベルでもかなりの情報処理能力が要求されるようになるから。
コンピュータリテラシーという言葉をよく耳にするけれど、コンピュータを情報処理のためのツールとして考えるなら、むしろその前にいかに情報と対処するかという“情報処理リテラシー”のようなものこそ必要になるのではないだろうか?

■職域と言葉の変質

今までのライター/編集者/デザイナーという言葉はかなり曖昧になってくるし、さらにここにワープロをはじめとするコンピュータが入ってくるとその様相はますます混沌としてくる。例えば、ワープロで原稿を書くということは、そのデータがそのまま電算写植と直結することにより、事実上写植オペレータの仕事を兼務することになる。さらにDTPが一般化すればライターは編集者やデザイナーの仕事までをも担うことになる。
すると、従来の編集者やデザイナーにはやることがなくなる。情報誌ではすでにそういうことが起こり始めている。例えばデザイナーは最初にページフォーマットを作るだけで、実際のレイアウトはライターが自分でやってしまうという事態になっている。今まではフォーマットをつくり、そこへ原稿を流し込むという単純作業により利益を上げていたのができなくなってきつつあるのだ。
例えば1ページ7000円のレイアウト料でいままで50頁あった仕事、つまり35万円の仕事が、たった7000円の仕事になってしまうのである。当然、自己防衛反応が起きる。いままで1誌で仕事していたのを数誌に増やす方法。積極的にコンピュータを導入しそれを付加価値として商売する方法。あるいはフォーマットで処理できないようなデザインにするという方法、つまりデザイナーというよりはアーティストになる方法。そして最後は“知的所有権/財産権/版面権”のような考え方を持ち出して権益を保護する方法である。
最初の方法はどうしてもひとつの仕事に掛ける時間が少なくなるからじっくり考える時間がなくなり、質的な劣化を引き起こす。2番目の方法は今はまだいいが全体がそうなってくれば、また別の“差別化”の方法を考えなければならなくなる。つまり技術の進歩とのいたちごっこをすることになる。3番目の方法は、情報をわかりやすく伝えるという、デザイン本来の機能を失わせる結果になる。
例えば、最近はやたらと読みにくい本が増えている。見た目はいいのだけと、いざ読もうとするとデザインが壁のようになってしまって全然中に入っていけない。確かに“造本芸術”という考え方もあるけれど、読めない本なんてデザインとしては最悪である。
ところがデザイナーも編集者も本能的な危機感からか、そういうものを競って作るようになってしまった。本の内容そっちのけで自分の存在を誇示し始めているのだ。杉浦康平さん、戸田ツトムさんをはじめとするいわゆる工作舎系の編集やデザインがそうだ。
編集工学、オブジェとしての本、書籍という名の宇宙…キャッチフレーズとしては素晴らしい。何を隠そう、そのイメージにつられて10年前は私も『遊』の読者だったのだ。ただ、ほんとうに読めなかったし、読む気が起きなかった。当時はわからなかったが、いま考えてみると、これは“高度情報社会”への本質的な拒絶反応が創り出したコンセプトなのかもしれない。
しかし、出版メディアそのものがこうやって自らのメディアとしての可能性を閉じ込め、読めない本を、アクセスできないメディアを作って、いったいどうしようと言うのだろう?との方法も後向きだ。

■失業して「情報デザイナー」になってみる

従来の職域/名前に固執していると状態は悪くなる一方だ。10年ぐらい前から少しずつ変質が始まっていたのが、コンビュータが様々なレベルで導入されるに連れ、それが極端になってきた。作業スタイルも工程も流通方法もまた、役割分担までも全てが変化し始めている。当然、従来の編集という言葉もデザインという言葉も変質を余儀なくされている。
だから、いっそいままでの「執筆/編集/デザイン」という言葉をやめて「情報デザイン」と呼んだらどうだろうか…という乱暴と言えば乱暴な提案をしたいのだ。
そして、そこからもっと実態にふさわしい職域や名前を創り出していったほうがいいと思う。「情報デザイン」という言葉で世界を見ると、新しい仕事の領域も見えてくる。失業を恐れることはない。
ネットワークという新しい情報流通回路をどうデザインするのか、全ての人に開かれたデータベースをどう構築するか…情報生産、流通、管理、そしてソフトウェアの設計、ハードウェアに対する仕様書の提案、あらゆることが「情報デザイン」の作業領域として開けてくるはずだ。
そして、コンピュータに使われるのではなく、コンピュータに命令を下すことに快感を覚えるのでもなく、新しいパートナーとして付き合い、コンピュータに任せられることは任せてしまうのが一番健康的だと思う。少なくともコンピュータにできることに人間が固執するのは馬鹿げている。

■アプリケーションの世界で起こっていること

「情報デザイン」の核となるのは間違いなくコンピュータである。ところが、ここにも問題はある。「今のパソコンの処理能力は一昔前のミニコンクラスだ…」といった話はよく耳にする。ソフトウェアの進歩も著しい。5年前には数十万していたソフトと同じ機能をもつものが十分の一の値段で手にはいる。そして機能は強化され続けている。
ところが人間の利用技術は全然追いつかない。4095行使えるマルチプランを前に1通の請求書フォームで満足せざるを得ない状況が厳然としてある。15種類の罫線をサポートした『一太郎』でビジネス文書を作っているのだ。
そして何百人何千人の人が同じハード/ソフトの前で同じことで頭をひねり悩み怒り…マニュアルが悪い、操作体系が統一されてないと愚痴をこぼしている。
僕には壮大な時間と労力の浪費にしか見えない。もっと他に考えるべき手、精力を傾けなければならないことがあるはずなのに。そして、苦労してやっと得た知識も個人の中にとどまっていて決して表だってこない。個人の得た知識やノウハウをユーザー全体の共有財産とするような方法論も議論もない。パソコンジャーナリズムも何もしない。
知的所有権も版面権も大事だとは思う。でも、そんなことに固執していると本当に大事なことが見えなくなってしまう。僕は自分の得たものが役に立つならどんどん外へ出したい。それによって、少しでも全体の浪費が少なくなるのならこんなに嬉しいことはないのだ。

■具体的にどうするか

文句を付けるのは簡単である。批判するのはちょっと利口なら誰でもできる。が、いざどうするか?というとなかなか難しい。僕の頭の中にあるのはボンヤリとした問題意識と今までの経験から得た少しの蓄積があるだけである。「基礎講座」を開設するほど体系化されているわけではない。できることといえば、まずそれを読者の人に公開し、質疑応答の中で少しずつ全体を形作るための議長役をかって出るぐらいのものである。
つまり、情報を一方的に送り付ける基礎講座ではなく、参加してもらいながら少しずつ考えてみよう……という基礎講座、ネットワーク上の電子会議に近いものをやってみたいのだ。
僕は今までの経験で知り得たことを可能な限り“形”にしここに提出する。誌者の皆さんには「これはどう考えるのだ、こういうのは……」という各々の“DTP”の現場からのご質問/ご意見をいただきたい、と思う。
最初は全体が見えないので混乱するかもしれないが議論を積み重ねて行けば、困難な作業にはならないと思う。事の本質から考えて、ある種のマニュアルを作る作業になるだろうから。それを理解したり実行したりするのに特別な才能が要求されるようでは“技術”になりえない。
次回からはその“情報処理技術としてのデザインのノウハウ”を公開することがメインテーマになる。日々の情報との接し方の中で蓄積されてきた細かな技術を提示すること、それは例えば、「罫線の頭と文字の頭を揃えるにはとうしたらいいか?」などという実に細かいところから始まるかもしれない。「神は細部(ディテール)に宿る」場合もあるのだ。

■方法論

完全なボトムアップスタイルを採りたい。理念や理論や体系化は後で誰かがやってくれるだろう。とにかくどんな些細なことでも取り上げたい。そして全ての情報を可能な限り公開する。必要とあればゲストも迎えたい。僕自身の知識や経験はたかが知れている。足りない分はどんどん応援をお願いしたい。
個別のソフトの使い方から入って、少しずつソフトウェアの利用技術を考え、それを蓄積していくというスタイルも考えられる。いわばソフトウェア利用技術の共有データベースの構築である。フォーマットも蓄積しやすいスタイルにしたいと思う(これはデザイナーの人と打ち合せしないといけないけど)。できればコンピュータネットを組み、そこで一般的なデータベースにデータを取り込める形式で記事をアップロードするようなこともやりたい。同時に読者の皆さんもそこへ質問や意見が書き込めるようにしたい。
…と夢は広がるのだが、どこまでできるかはわからないし、一度に全てを始める訳にもいかない。少しずつできるところから始めるつもり。できるだけ多くの方々の参加をお待ちしています。では来月。

  • 【COLUMN−1】ネットワークを使ったソフトウェアのブラッシュアップ
    • 以前に『知子の情報』を取り上げてから付き合いのできた、テグレット技術開発の野手さんから、ある日メールが届いた。「今、章子の書斎」という統合環境エディタを作っているのでその評価をしてくれないか?」という内容だった。αバージョンがXMODEMを使ってWENETにアップロードされ.それをダウンロードしたメンバーが、実際に使っての評価を送り戻し、製品に反映されて市販バージョンとなった。これは別にWENETが初めてではない。日経MlXでも管理工学研究所(K3)が『新松』の時に同じようなことをやっていた。ソフトハウスは自前のネットワークを持って評価/バグ取りに活用すべきだ。ソフトウェアは生き物であり、ネットワークほどふさわしいメディアは他にないのだから。
  • 【COLUMN−2】情報誌の観点からメディアを見る
    • 典型的情報誌、ほとんど全頁広告というリクルートの『エイビーロード』。情報誌は明確にデータベースであり、誌者が求める情報を捜し出せるためのシステム作りが、記事作りに優先する。しかし、これは普通の編集者には苦痛を伴う作業となる。『ぴあ』は“編集者の「普通の雑誌が作りたい」という要求”に負けて『カレンダー』という一般誌を作ったことがある。しかし、これはすぐに潰れた。『ぴあ』の読者はそれを要求していなかったのだ。本屋も実はデータベースである。欲しい本が決っているなら、もっと効率的に捜し出せる検索システムが必要になるだろう。もっとも本屋の面白いところは、ふらふら歩いているうちに思っても見なかったような本に出会うところなのだが。情報の冗長度という言葉が頭をよぎる。
  • 【COLUMN−3】メディアであることを放棄した“オブジェとしての書物”
    • ヴィジュアルなメッセージが著者のメッセージを凌駕している。僕が著者なら怒るところだが、この本の著者はあとがきで「……特にこのめくるめくブック・デザインを手がけ……戸田ツトム氏……に感謝したしいと書いている。著者がそう言うなら、他人である僕がとやかく言うことではないのかもしれない。しかし、僕はこのブック・デザインのおかげで“目が回って半分も読めなかったというのは事実である。読めない奴が悪いというならそれでもいいが、やはり戸田さんはアーティストになるべきである。これは皮肉ではない。カバーデザインは充分に魅力的なのだから。

[1989.04.01]