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「実話」という虚構

「『電車男』は実話かネタか」という話は、昔(といっても1年ほど前だけど)からある。でもさ、そもそもあまり意味のある問いではないような気がする。
現実はたしかにある。しかし、それはある意味その瞬間にしか存在しない。次の瞬間には別の現実になる。言い方を変えるなら、無限の一瞬の積み重ねだとして、それがある特定幅を持ったものとして僕らが認識できるのは何故かといえば、記憶するからだ。
そうだなぁ、テレビ画面に似ているかもしれない。テレビ画面を数千分の一、数万分の一秒という高速シャッターで撮影したらどうなるか、たぶん、真っ黒な画面に赤か青か緑のたった一つの点だけしか映らないはずだ。そのたった一つの点が「現実」と呼ばれるものなのだ。僕らがそのアブストラクトでミニマルな点の連なりを意味のある画像として認識できるのは、残像があるからであり、さらにその画像の連なりを物語として認識できるのは、前の画面を何分間かあるいは何時間か何十時間か記憶していられるからだ。
実話とは「現実にあった話(物語)」ぐらいの意味だろうけど、だけど、現実がそもそも一点の光に過ぎなくて、それが物語として認識できるのはむしろ僕らの内部の生理的な機能によるとするなら、現実には物語など存在しない、つまりは実話などそもそもありえない、ということにはならないか。世界に実話が存在しないのであれば、そもそも件の問い「『電車男』は実話かネタか」自体、無意味だろうと。